この人 2016年09月19日 文学 トラックバック:0コメント:18

小菅留冶の句。

更衣して痩せしこと言はれけり

桐咲くや田を売る話多き村

メーデーは過ぎても貧しきもの貧し

冬木立縫ふ新しき消防車

夏草に化粧の壜を捨てにけり

水争ふ兄を残して帰りけり

大氷柱崩るる音す星明り


小菅留冶は病気療養中の昭和二十七年から、俳句誌「海坂」に投句していたことがある。
上の七句はその頃の作品である。
二十代後半のしかも失意のうちにあった小菅は、俳句に巡り合うことによって、
情熱を傾ける世界を見つけたのだろう。

療養生活から社会復帰した小菅は、俳句から小説の世界に足を踏み入れる。
その作品の中には、かつて投句していた静岡の俳句誌「海坂」の名を借りた架空の藩、
「海坂(うなさか)藩」が頻繁に使われている。

後に彼はこう語っている。
「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな弧を描く。
そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いたことがある。美しい言葉である。
俳誌『海坂』は過去に一度だけ、私が真剣に句作した場所であり、
その結社の親密な空気とともに、忘れ得ない俳誌となった。
『海坂』借用の裏には、言葉の美しさを借りただけでなく、そういう心情的な懐かしさも介在している。
ただ俳句の方は伸びなかった。早々と自分の才能に見切りをつけたのである。」


しかし上記の句を見ると、とても二十代のしかも投句歴二年とは思えぬ域に達しているではないか。
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ILLUSTRATED BY NANTEI

その小菅留冶とは、後年、昭和を代表する時代小説家となった、
藤沢周平の本名である。

簡潔な筆の運びと得も言えぬ余韻は、俳句を学んだ人ならではと、今更ながらに思う。
ことに、十頁に満たない短編を集めた『日暮れ竹河岸』は、その意味で藤沢文学の結晶といえるだろう。

●関連記事●
井上ひさしと藤沢周平




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南回廊 2013年12月05日 文学 トラックバック:0コメント:16

三州仕立て小蕪汁。

味噌汁は簡単にできるものでありながら、その実が、
日常どこの家庭でも美味しくつくられてはいないようで、一言申し上げようと思う。
味噌汁は、中身の如何にかかわらず、時間をかけて煮てはいけない。

まずだしをとり、次に中身がよく煮えてから、最後に味噌を落とし、
沸騰したら直ちに椀に盛るという加減のところがよろしい。

ところが、家庭によっては、朝食が家人の都合でまちまちになっている。
七時の者、八時の者というふうに、不揃いで食事すると、それがひとつの味噌汁なら、
最初に食べる者は一番塩梅のよいものを食べるが、二番目、三番目となると、
冷めぬようにいつまでも火にかけたり、また冷ましたり、温め直しているうちに、
しまいにはわけのわからぬ泥水みたいなものになってしまう。

味噌汁には味噌汁のコツがある。
それを会得しなければ、いつまでたっても上品な美味を持つ味噌汁はできない。
要は、味噌を生かしているか、殺してしまっているかということなのである。

殺してしまっては、意義を失うのであって、いい出来栄えは得られない。
反対に、いい出来栄えのものは、味噌を生かしている場合なのである。
生きているという場合は、つくる人が生きているということなのである。

汁
※写真はお借りしたものです。

料理する者は、常にものを生かすことを心掛けなければ、よい料理はできない。
料理法がよくなければ、自然、味もみな殺されてしまう。

(中略)

三州味噌は澱粉が多いので、澱粉まで全部使っては、ドロドロになって美味いというわけにはいかない。
濃い三州仕立ての味噌汁は胸にもたれていけない。
それにはまず、三州味噌を細か目のざるに入れて、だしの中で洗うのである。

すると、ざるの中には著しく澱粉が残る。
よく洗えば自然と汁は濃くなるし、あっさり洗えば勢い贅沢な味噌汁になる。
これを洗い味噌という。

味噌汁ひとつつくるにしても、いろいろな手法があろう。
その手際如何で、同じ材料の味噌汁にも幾段の等級ができる。


(中略)

大根とか蕪などの野菜の場合は、持ち味を絶対に捨てぬことである。
魚の場合だったら、味噌汁は味噌汁の味のままにしておいて、魚は魚で別につくり、汁を出すとき入れるようにする。
青い魚、さばとか、あじとかは、ことにそうしなければ、汁の味がくどく、下品になっていけない。

魚といっても、きすとか、わたぬきの鮎とかいうようなあっさりしたものは、そうやらなくてもよい。
三州仕立ての味噌汁は、ほかに江戸前のこいなど入れて煮込むやり方もあるし、
白魚、赤貝などの軽いもので拍子を取る場合もある。

また、豆腐でつくる場合もある。
それは濃淡よろしきを工夫されればよろしい。

北大路魯山人


篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・と様々な顔を持つ魯山人。
美食家としても厳しい目を持った魯山人は、
渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、
自ら持参したわさび醤油で食べたという逸話が残ってるほど、味には煩さかったという。

この「三州仕立て小蕪汁」は、そんな魯山人が書いた随筆の一編である。
味噌汁ひとつに、これだけの薀蓄を傾けられるその拘りには、驚くべきものがある。

これは『日本の名随筆』集のうち(菜)に収められている。



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南回廊 2013年09月23日 文学 トラックバック:0コメント:18

《今週の・りこちゃん、わこちゃん。》
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妹が夏の夕ぐれひそひそと親孝行の話持ちかける  松田梨子

最終の乳歯が抜けてもう私子供になんて戻れなくなる  松田わこ




年齢について

三十歳になったら、どういう心持になるだろうか、とときおり考えているうちに三十になり、
無事に生きのびて、しだいに四十に近づいてゆく。
しかし、三十歳という年齢をかかえ込んでいる私自身の心持は、さして以前と変わりがない。
もっとも、そう思っているのは当人だけで、年齢というものは外側にあらわれてくるものだ。

街の射的屋でワイシャツの腕まくりでピースの箱などを射ち落としていて、
傍の学生に、「オジさん、うまいね」などとほめられて、
自分もすでにオジさんと言われる年齢になっていることに、
いまさらのように気がついて、ギョッとしたりするのである。

しかし、四十ニシテ惑ワズという言葉もあるように、
四十になったら、少しはちがった心持になるかもしれない。

と、いうようなことを考えている時、
七十幾歳の女性から、大そう参考になる話を聞く機会を得た。
彼女の友人のやはり七十幾歳の女性の話である。

その女性は七十幾歳の男性と恋仲になった、という。
ところが世間の眼がうるさいので、ジョウルリの研究会であいびきすることにした。
会場の畳の上にすわって、二人寄添って手をにぎり合い、ジョウルリを聞くのである。

ところが、ここにもう一人の七十幾歳の男性が、その女性に恋慕してしまった。
寄添ってすわっている二人のすぐうしろに、いつもじっとすわって、
熱烈な視線を彼女にそそいでいるのである。
そして彼は、スキをみては、彼女にいろいろの言葉をささやいて、彼女をくどこうとする。

そういう話を、七十幾歳の女性が、気軽な調子でしゃべるのである。
七十幾歳の恋愛風景としては、大そうみずみずしいので、私はうれしくなってきて、
「なるほど、くどくのですか。なんといって、くどくのだろう」とたずねてみると、
「自分には、妻も子もなくて、さびしい、さびしい」といって、くどくのだそうである。

ところが、じつは、そのおじいさんには、妻も子も、
また沢山の孫たちもいる、という話だ。

私は独身であると偽って女性をくどいた経験はないが、
この七十幾歳のおじいさんのくどき方は、ういういしく、ほほえましいものではないか。

こういう話を聞いていると、どうやら七十歳になっても、
その心持は現在とさして変わりそうにもない。
まだまだ前途は、洋々たるものである。しかし、肉体だけは確実に古びてゆく。

うれしいような、わびしいような奇妙な心持で、
私は語り手の七十余歳の女性の、しわの寄った口もとをながめていた。

吉行淳之介



この随筆は、『日本の名随筆』(作品社)に収録されている一編です。

『日本の名随筆』は「本巻」100巻および「別巻」100巻からなり、
昭和57年10月より毎月欠かさず1巻ずつ、200か月をかけて、平成11年6月に全200巻の刊行を完結させています。

各巻は「旅」「釣」「味」「酒」「肴」「恋」「嘘」などのテーマに別れていて、
吉行淳之介の《年齢については》は「老」に収められていますが、

他にも谷崎潤一郎、久保田万太郎、大岡昇平、志賀直哉、小林秀雄、井伏鱒二、平林たい子、
など46人にのぼる文章の達人たちが、老についていぶし銀のような名随筆を寄せています。



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南回廊 2013年08月07日 文学 トラックバック:0コメント:24

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ILLUSTRATED BY NANTEI

一千一秒物語

稲垣足穂(いながきたるほ)という作家をご存じだろうか。
稲垣 足穂(1900年12月26日 - 1977年10月25日)は関西学院卒業後、神戸で複葉機製作に携わったが後に上京。
関東大震災の前後、雑誌『文藝春秋』『新潮』『新青年』を中心に作品を発表、
新感覚派の一角とみなされるようになった。

三島由紀夫(ちなみに三島は足穂を、「昭和文学のもっとも微妙な花のひとつ」と讃を送っている)の後押しにより、
『少年愛の美学』で第1回日本文学大賞を受賞した。

世界大百科事典では、稲垣足穂について、

少年期の飛行機幻想をそのまま70余年の孤高の日々にもちこんだ異色作家。
10代後半に構想をまとめたという代表作《一千一秒物語》(1923)や、
日本文学大賞受賞作の《少年愛の美学》(1968)にみられる〈人間をオブジェとして扱う手法〉は、
タルホ・コスモロジーと言われる宇宙論的郷愁とあいまって、全作品に共通する特徴である。
都市の幾何学、飛行精神、人工模型、英国ダンディズム、男色趣味、謡曲の幻想世界、物理学的審美主義、
ヒンドゥーイズム、キネティックな手法、月光感覚などを駆使した作品群は世界文芸史上にも類がない。


と解説しているが、解説からしてぼんくらの私にはチンプンカンプンだった。
もちろんその存在すら知らなかったのは当然である。

しかし文盲に近い私を憐れんだのか、ある時は谷崎、ある時は太宰といったごく初心者向けの文学作品を、
その膨大な蔵書の中から貸与してくれた恩人O氏から「こういうのも読んでおいたほうがいいぞ」
と手渡してくれたのが、 足穂の《一千一秒物語》という一冊だった。

宿題をもらった生徒のように、しぶしぶ開いてみたのだが、
仰天したのは40字から800字ほどの詩とも短編ともつかない話が約70編連なっていて、
しかもそれは不思議なというより、妖しい世界に突き落とされるような短編集だったのである。

その中からいくつか紹介しよう。

黒猫のしっぽを切った話
ある晩 黒猫をつかまえて鋏でしっぽを切るとパチン!と黄いろい煙になってしまった
頭の上でキャッ!という声がした 
窓をあけると 尾のないホーキ星が逃げて行くのが見えた


ココアのいたずら
ある晩 ココアを飲もうとすると あついココア色の中から 
ゲラゲラと笑い声がした びくりして窓の外へ放り投げた
しばらくたってソーと窓から首を出してみると 闇の中で茶碗らしいものが白く見えていた
なんであったろうかと庭へ下りて いじろうとしたら
ホイ!という掛声もろとも屋根の上までほうり上げられた


土星が三つ出来た話
街角のバーへ土星が飲みにくるというので しらべたら只の人間であった
その人間がどうして土星になったかというと 話に輪をかける癖があるからだと
そんなことに輪をかけて 土星がくるなんて云った男のほうが土星だと云ったら
そんなつまらない話に輪をかけて しゃれたつもりの君こそ土星だと云われた


どうして酔いよりさめたか?
ある晩 唄をうたいながら歩いていると 井戸へ落ちた
HELP!HELP!と叫ぶと たれかが綱を下ろしてくれた
自分は片手にぶら下げていた飲みさしのブランディびんの口から葡い出してきた


IT'S NOTHING ELSE
A氏の説によるとそれはそれはたいへんな
どう申してよいか びっくりするようなことがあります
それでおしまい


丸尾長顕はこの《一千一秒物語》について、「これこそショート・ショートの元祖である」と評し、
現代ショート・ショートの旗手である星新一は「ひとつの独得の小宇宙が形成」されていて、
「感性による詩の世界」と言う。

松村実氏の解説によると、
ここには人間的な温かさは全然感じられず、
あらゆるものは無機物のレトルトによる金属性血液を注入されて、
自由自在に飛び回っているのである。


これもチンプンカンプンの解説だが、わけのわからないものほど面白いことがある。

短夜のつれづれにいかがだろうか。



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南回廊 2013年07月05日 文学 トラックバック:0コメント:16

半田守右衛門。
半田守右衛門は江戸屋敷で御納戸頭を勤めていた。
屋敷に出入りする商人からの買物を捌くだけでなく、
商人たちから藩が借り入れている借財のやりくりにも一役買っていて、
半田はその方面でもなかなかの手腕家と言われた。

その半田守右衛門が、関係の商人たちからひそかに賄賂を取っていたことが発覚したのである。
意図的に賄賂をあつめ、かつその金額も大きいことが調べでわかった。

半田守右衛門は即刻役職を免ぜられた上に家禄五分の一を削られ、国勤めに替えられた。
それから十年の月日が経った。
ところがこの頃になって、半田守右衛門の事件は冤罪ではなかったかという疑いが出てきたのである。

半田守右衛門が失脚したあと、御納戸頭となったのが東野市兵衛だった。
その市兵衛は大過なく役を勤めて二年前隠居したのだが、
最近になって御納戸の帳簿に続々と不審な点がみつかった。

調べの結果さきの御納戸頭東野市兵衛ほか御納戸役二名の不正が明らかになったのだが、
その調べの途中で、昔の半田守右衛門の収賄事件は、
当時下役だった東野が仕掛けた罠ではなかったかという疑いが浮かび上がったのだった。

だが、その市兵衛は半年前に病死している。
「はたして濡れ衣だったのかどうか、その後の半田守右衛門をそれとなく調べて貰えないでしょうか」
隠居した元側用人、三屋清左衛門にそのような相談を持ち込んできたのが、藩主の側近相庭与七郎だった。

その後の半田の勤めが清々しいものであれば、家禄を元にもどしてやってもいいというのが藩の考えで、
公に調べるよりは信頼できる三屋へ内密に頼めという藩主の言葉を伝えにきたのである。
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ILLUSTRATED BY NANTEI


面倒かと思った半田守右衛門の調べは意外に順調にすすみ、
しかもこれまでのところ、調べは半田の冤罪を予想させる方角に向かっていた。
城内での評判も好ましいもので、半田を悪く言う者は一人もいなかったのである。

半田の無罪は大いにあり得ることだと思われた矢先のことだった。
念のためと城出入りの商人を訪ね歩いた清左衛門に、
半田と昵懇という駿河屋の主がそれまでの好印象を覆すようなことを、恐る恐る話し始めたのである。

「半田さまからお申し出がありまして、月々に多少のお金をつごうしてさし上げているのは事実です。
借りたとも貸したともいわず、証文もございませんからこれはやはり賄賂でございますかな」

半田守右衛門は小料理屋の一室で、駿河屋から賄賂を受け取っていたことを認めた。
「こうなるといくら十年前の事件が無実だったとしても、家禄を旧にもどしてしかるべしとは言えんな」
清左衛門は気落ちしながら言った。

「当然でございます」半田は駿河屋からの収賄は認めたが、
十年前の事件については断固とした顔色で、濡れ衣を主張した。

半田はいかつい身体つきをしているが、清左衛門より二つ三つ下のはずなのに、
髪は半ば白くその顔には深い皺が刻まれ、総じて老けてみえる。
半田の変貌ぶりはいわれない罪を着せられた心身の疲れが、外にあらわれて来たというものかも知れなかった。

清左衛門は軽い憐憫に動かされた。
「今度のことには目をつぶろう。ただし昔の事件はやはり事実だったと報告するがよいか。
新たな収賄が発覚しては殿の心証はすこぶる悪くなるだろう。
家禄が戻るどころか、二度と貴公に日が射すかどうかは疑わしい」

「お慈悲をもって・・・」半田の顔から汗がしたたり落ちた。

●●
それから暫くして半田守右衛門が、城下で最も悪辣な商売をしていると言われる高利貸、
児玉屋からある時期に五十両の大金を借り、月々高利の金を返済しているということが判明した。

「何のための借金だと、半田は申したかの」清左衛門はさっそく児玉屋を訪れて糺した。
「お孫さまが重病に罹られたのです。それが大変な病気でございまして、
江戸から薬を取り寄せたということでした。それは高いお薬だったそうです」

「で孫の病気はどうしたかな」
「二年ほどして元気になられたそうです。
評判の悪い児玉屋の金が、半田さまの跡取りになられるお子の命を救ったわけでございますよ」
児玉屋はにたにた笑った。

人影もない裏通りを歩きながら、清左衛門は半田守右衛門のことを考え続けていた。
半田の賄賂が、重病の孫を助けるためにした借金のせいだということは、
半田を問いつめるまでもなく明らかなことだった。

清左衛門の眼には、高利を承知で借金した半田の行為が、
冤罪とはいえ家禄を減らした男の家の者に対する贖罪のように映った。

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これは藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』に収められている「ならず者」の中の物語を、
かいつまんで紹介したものである。

『三屋清左衛門残日録』は隠居した武士の日々を描いた、いぶし銀のような作品である。
そのなかでもこの半田守右衛門のくだりは、
運命に翻弄されながらもひたすら堪え抜く男を描いて胸を打つ。

しかも後味が清々しいのは、藤沢周平らしい人間肯定の視線と端正な筆致によるものだろう。

●●●
この長編小説はNHKの金曜時代劇でドラマ化された。
ドラマの概要については清左衛門をご覧になってほしいが、
半田守右衛門が出てくるのは全14話のうち、第7話「花のなごり」篇である。

半田守右衛門にはクラシックの替え歌で注目された斉藤晴彦が起用され、
はまり役といえるほど見事な演技を披露している。
むしろ原作より深味のある物語りになっているのは、彼の存在のおかげであろう。

余談だが放送作家、司会者としても知られた故前田武彦も半田の元上司役で出演している。



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