日本最初の 2016年08月06日 歴史 トラックバック:0コメント:14

ピストルXX。
川路聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期の幕臣である。
豊後(大分県)日田代官所の役人の家に生まれたが、稀にみるみる才幹を認められ、
幕吏としての出世コースを歩むことになった。
佐渡奉行、大坂町奉行、勘定奉行と要職を歴任するようになった川路は、
当時の海外事情や西洋の技術などにも通じていたことから、
外務大臣ともいうべき外国奉行を命ぜられ、日露和親条約の調印に尽力する。

次いで日米通商条約の締結を目指すが、朝廷の強い反対で挫折した川路は、
大老に就任した井伊直弼の一橋派排除に伴い、閑職に左遷された。
(病弱で暗愚だった13代将軍家定の後継を巡って、一橋慶喜を推す水戸藩主斉昭、松平慶永、島津斉彬、山内容堂らと、
紀州の徳川慶福を推挙する井伊直弼、会津藩主松平容保らが激しく対立した結果、
井伊たち南紀派が勝利して慶福は14代将軍家茂となった。大老となった井伊直弼は、対立した一橋派を弾圧する)

川路は一橋派に連なると見なされたのである。

その後病気を理由に引退した川路だったが、中風による半身不随や弟の死など不幸が続く。
慶応4年(1868年)、ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。
その日は新政府軍による江戸総攻撃の予定日であった。
病の体が戦の足手まといになることを恐れてのこととも、また、滅びゆく幕府に殉じたとも。

ピストルを用いたのは、半身不随のため刀ではうまく自決できないと判断したからだと言われている。
こうして川路聖謨は、日本における最初のピストル自殺者となったのである。

img130.jpg
ILLUSTRATED BY NANTEI

川路聖謨は子供の時に疱瘡を患い、あばただらけだった。
おまけに窪んだ金壺眼であり、非常な醜男と自ら評していた。

日露交渉の際、ロシアの使節たちは川路の人柄に魅せられて、写真を撮ろうとしたが、
川路は「私のような醜男を日本人の代表と思われては困る」と発言して彼らを笑わせたという。
全権使節プチャーチンは帰国後に
「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどの、ウィットと知性を備えた人物であった」と書いている。

この後、明治20年にはプチャーチンの孫娘オルガが、
川路ゆかりの地・静岡県戸田村を訪れ、100ルーブルの寄付をした。
以降も両家の交流は続き、平成20年には日露修好150年を祝ったそうである。


緑陰


スポンサーサイト

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

千葉開府 2016年06月05日 歴史 トラックバック:0コメント:12

890年。
6月1日は、千葉常重が亥鼻付近に館を構え、都市としての千葉が誕生した千葉開府の日である。
それが1126年のことで、今年は890年という節目の年だというが、なんとも中途半端な節目ではないか。

6-0604.jpg

そんな疑問をよそに、千葉市では6月1日から記念式典や記念催事が目白押しだったようだ。
「だったようだ」とは、申し訳ないが関心が薄かった所為である。
自称《歴爺》の南亭にとって、プログラムの内容が物足りなかった所為もある。

6-0604A.jpg

6-0604B.jpg

それでも4日、中央公園の「開府祭り」を覗いてきた。
やはり開府「890年」の意味合いが希薄だったのか人は少なく、盛り上がりに欠いた催しだったようだ。
やがて武者行列が始まるということだが、畑へ行く途中でもあり早々に退散したのである。

千葉氏とは。
ところで千葉氏とはどんな一族だったのだろうか。
千葉氏は桓武天皇から出た桓武平氏の一族であり、現在の千葉市緑区大椎に舘を築いて本拠としていたが、
常胤の時代に源頼朝の呼応に従って功績のあったことから、 亥鼻を本拠に下総国、上総国の支配権を確立した。

《平氏・千葉氏略系図》
千葉氏
鎌倉幕府では当然大きな発言力を持っていたが、一族の内紛が続き次第に勢力は衰えていった。
室町時代の中期、嫡流は事実上滅亡する。

妙見信仰。
繰り返すようだが千葉市の都市としての歴史は、千葉常胤の父千葉常重が亥鼻山周辺に舘を築いたのが始まりである。
亥鼻は現在千葉大学医学部のキャンパスとなっているが、構内や周辺に七天王塚と呼ばれる7つの塚があり、
これは千葉氏城館の鬼門の方角に妙見信仰の信仰対象である北斗七星を祀ったものと言われている。

一昨年、その七天王塚をつぶさに見て回ったことがある。
その時の記事を覚えている方も多いだろうが、改めて紹介しよう。

4-0517-1.jpg 4-0517-2.jpg
(一)(二)
4-0517-3.jpg4-0517-4.jpg
(三)(四)
4-0517-5.jpg4-0517-6.jpg
(五)(六)
4-0517-7.jpg
(七)
これらの塚は、なんと北斗七星のかたちに配置されているのだ。
大きな歴史ロマンを感じる史跡である。

4-0517G.jpg


今後「千葉開府」の行事には是非、こういった千葉氏ゆかりの史跡紹介や周遊を企画してもらいたいものだ。



テーマ:雑学・情報 - ジャンル:学問・文化・芸術

中国悪女伝(其の四) 2016年03月16日 歴史 トラックバック:0コメント:24

呂后。
(りょこう)

間があいてしまいましたが、悪女伝の続きです。前回は驪姫(りき)のお話しでしたね。
驪姫が自害したのは前651年のことです。

それから430年後、戦国の覇者となり中国を統一したのがご存知、秦の始皇帝ですが死後は再び乱世となりました。
我こそはの野望を抱いた男どもの中で、抜きん出たのが項羽と劉邦。
苛烈な死闘を繰り返した結果、劉邦が幸運にも天下を制したことは良く知られていますね。

劉邦が皇帝に推されて即位したのは前202年。いわゆる漢帝国の始まりです。
後世に「高祖」と崇められた劉邦ですが、もともとが《やくざ者》のような存在でした。
仕事もせず、酒色にうつつを抜かしていたといいます。

ただ劉邦は鼻が高く立派な髭を持った、『龍顔』といわれる尊貴な容姿をしていたようで、
そのために乱世における一方の旗頭として、担ぎあげられたのです。
まだ《やくざ者》だったその劉邦に嫁いだのが、土地の有力者の娘、呂雉(りょち)でした。

担ぎ上げられて次第に大軍の大将となったものの、戦下手の劉邦は戦えば負けて、
その都度命からがら逃げ回っていたのですが、そんな劉邦と危険を共にし、
ともすれば何もかも投げ捨てて雲隠れしようとする、弱気な夫を励まし励まししてきたのが呂雉でして、
まさに糟糠の妻だったわけですね。

『龍顔』が持つ特別な運命なのでしょうか、劉邦は図らずも大帝国の主となりました。
ところが何でも手に入るようになった劉邦は、好色の本性を現して真っ先に天下の美女を漁ったのです。
その中で最も愛した女性が威夫人でした。
威夫人に溺れた劉邦は次第に口やかましい呂雉を遠ざけるようになります。
img115.jpg
陶製『三彩婦人』。
ILLUSTRATED BY NANTEI

皇后として《呂后》と称されるようになった呂雉ですが、それは頭にくるでしょうね。
「だれのおかげで皇帝になったと思うとるだがや!」
もともとが疑い深く、嫉妬深い呂后でしたから胸の奥深く復讐の炎が燃え盛っていたに違いありません。

疑い深いといえば劉邦が皇帝になってからは、その天下を脅かすような実力者を讒言して死に至らしめたのも呂后でした。
長年軍旅を共にした将軍たち、彭越、鯨布、そして天才的な兵略家・韓信といった功臣が次々と粛清されたのですが、
酒色に溺れるだけとなった皇帝劉邦は、ただただ呂后の言うなりだったのです。

間もなくして、やくざ者の皇帝劉邦は波乱の人生を閉じます。紀元前195年のことでした。
悲しみの反面で「よっしゃ~!」と思ったのが、権力を握った呂后です。
さっそく憎っくき威夫人を捕え、書くのもおぞましい残虐な方法で始末してしまいました。
もちろんその子、如意も殺されたのは無論です。

更には旦那だった劉邦の一族劉氏を弱体化しようとしたのです。
後継ぎの息子、恵帝は虚弱体質でしたから自分が権力を握っている間に、
実家である呂氏によって、天下を固めようと考えたからでした。

劉一族の有力者を遠方の知事や守備隊長に追いやり、それに反抗する者は即座に命を奪ったのです。
代わりに呂台、呂産、呂禄といった呂后の縁者に軍事権や統治権を与えたものですから、呂氏一族は大いに栄えました。

その呂后も病に侵され(乳癌の類といわれてますが)、61年の人生を閉じました。紀元前180年のことです。
その遺言は、「葬式はいらぬ。葬式にかまけている間に不平分子に宮廷を乗っ取られたらどうするだがや!」

呂后の後半生は、極度の猜疑心が産んだ恐怖によって左右されていたようです。
恐怖にかられた人間は、追いつめられると何をしでかすか、わかったものではありません。
呂后の残虐さも、そんな恐怖の裏返しだったのでしょう。

ま、呂后のように極端ではありませんが、権力者というのは多かれ少なかれ、
そんな心理状態に陥るのではないでしょうか。

我が国でも天武天皇の妃、後に持統天皇となった女帝は我が子の将来を案じるあまり、
母の異なる大津皇子を反逆の罪で処刑し、人望の篤かった高市皇子を密かに毒殺したという例があります。

さて、呂后が亡くなった後の呂氏一族ですが、その凋落は呆気ないほど早かったようです。
辺境へ追いやられた劉氏の一族が兵権を奪い返して都に乱入し、
また呂氏に恨みを持つ旧臣たちも私兵を集めて一族の邸宅を襲ったため、
呂氏の主だった者は全て命を奪われてしまったのです。

呂后の死からわずか一カ月足らずのことでした。



前三話は右上の「歴史」をクリックしていただくと、遡ることができます。


テーマ:雑学・情報 - ジャンル:学問・文化・芸術

中国悪女伝(其の三) 2016年02月05日 歴史 トラックバック:0コメント:16

驪姫
(りき)

驪姫は悪女というより、復讐の鬼と化した女性と言えましょう。
時は紀元前672年、中国は周が滅びて春秋・戦国という混乱の時代になりました。
中で強国だった晋の献公は小国の驪戎(りじゅう)に侵略しましたが、目的は噂に高い美人姉妹を得ることでした。

晋に略奪された姉妹、特に姉の驪姫は、自分の生まれた驪戎をこよなく愛していたものですから、
その国土が晋に蹂躙されたことに、誰よりも激しい怒りを覚えていました。

彼女は自分にも亡国の責任があると感じ、償わなければならないとも思いました。
それには、この晋をずたずたにすることだと心に誓ったのです。

驪姫は並みの美女ではなく、たいへん頭脳の優れた女性でした。
復讐の心を悟られないよう、献公に好かれる女性を演じ続けたので、
公の寵愛を一身に受けるようになったのは当然のことですね。
驪姫はその間に晋を内側から滅亡させる策を練っていたのです。

献公には申生、重耳、夷吾という腹違いの三人の男の子がいました。
彼女はこれに目を付け、献公が彼らに対して不信感を深めるような策を次々と実行しました。

まず長男の申生を陥れるため、申生がいかにも驪姫に言い寄ったような情景を仕組んで、
わざと献公の眼にとまるよう演出したのです。
当然、公は激怒して申生を殺そうとしますが、驪姫の巧妙なところは、
「今、申生さまに手を出されては、この国がばらばらになってしまいます。
どうかご辛抱なさりませ。わたくしの命がけのお願いでございます。」


献公は国を案ずる聡明な驪姫を、ますます信頼するようになりました。

次に驪姫が打った手は、決定的なものでした。
申生が亡き母の霊廟を祀って、その供え物(牛・豚・羊など)を父に献上したのですが、驪姫はその中に毒を盛ったのです。

料理人が調理したそれらの供え物を、献公が口に入れようとした時、
「お待ちください。霊廟からの道中は長うございます。悪くなっているかもしれません。」
驪姫は犬を呼んでその肉を与えると、犬は血を吐いて倒れてしまったのです。

あれ以来、申生に不信の念を抱いていた献公が怒り狂ったのは言うまでもありません。
その出来事を側近の注進によって知った申生は、もはや言い訳も無駄と自らの命を絶ってしまったのです。

驪姫にとって、いよいよ復讐の仕上げが近付いてきました。
申生の自決から間もなくのこと、彼女は美しい眉をひそめて献公にこう言います。
「申生がお上を毒殺しようとした事件には、重耳と夷吾の二公子も関わっております」
img107.jpg
春秋・戦国時代の刀幣(刀の形をした銅貨)
ILLUSTRATED BY NANTEI

齢をとって判断力が衰えた献公は、驪姫の言うことなら何でも信じるようになりました。
「けしからん!すぐに殺せ」
しかしこのことはすぐ、重耳と夷吾に伝わり二人は他国に亡命するのです。

間もなく献公は病いに犯されて、七十年の生涯を終えました。
後継者の一人は自決し、あとの二人は見知らぬ国で亡命生活を余儀なくされています。
国のかじ取りを失った晋が自壊するのは目に見えています。
驪姫の復讐はここに完結したようでしたが・・・

早くから驪姫の企みに気づいていた、一人の大臣がいました。
荀息(じゅんそく)というこの優れた大臣は献公の死後、兵権を握っていた驪姫の側近を監禁し、
亡命先の二公子を密かに国境に呼んで軍隊を与えたのです。
公子たちは都に攻め上ってきました。

荀息は驪姫に言います。
「どうなさいますか?お子様の運命などご覧になりたくないでしょう」
驪姫は、無表情で宮殿の池に身を投げたのでした。

献公の力で太子となった驪姫の息子、奚斎は公子たちの兵隊に殺され、
公子のうちで年長の夷呉が即位しました。恵公といいます。
しかし、これで晋に秩序が戻ったわけではありませんでした。

恵公は吝嗇で猜疑心が強く、功績のあった臣下に報いることが無かった上に、
気に入らない者を次々と殺したため、人民の不信を招き各地で反乱が勃発したのです。
恵公は身の危険に絶えず怯えながら、病死によって短い治世を終えました。

驪姫の怨念は死後も晋にとりついていたのですね。
間もなく晋は分裂し、実質上の滅亡を迎えたのですが・・・。

果たして、驪姫の魂は浮かばれたのでしょうか。



テーマ:雑学・情報 - ジャンル:学問・文化・芸術

中国悪女伝(其の二) 2016年01月22日 歴史 トラックバック:0コメント:18

褒姒
(ほうじ)

妲己の死、そして殷の滅亡から下ることおよそ160年、周王朝は12代目幽王(在位・前781-771)の時代。
ある弓売りの夫婦が棄て子を拾って、育てることにしたのですが、
大きくなるにつれて誰もが息を呑むような美女になりました。

そのころ夫婦が住んでいた褒(ほう)の領主が、何かの罪で禁固刑を受けておりまして、
その釈放工作のひとつとして、褒の国第一の美女を周王に献上することになったのです。
弓売り夫婦の養女が選ばれたのは、いうまでもありません。

幽王はこの褒姒を寵愛しましたが、彼女は笑わない女性でした。
生まれたときから、笑ったことがなかったといいます。
なんとか彼女を喜ばせたいと、皇太子だった正妃の息子・宜臼(ぎきゅう)を廃して、
褒姒の子供を太子に立てたのですが、それでも笑顔を見せません。

そうなると幽王にとって、最大の生き甲斐は褒姒を笑わせること、ただそれだけになりました。
えりすぐった音楽家や俳優を呼んで、楽しませようとしても笑わないのです。
たまりかねた王は訊ねました。

「いったい、そなたは何が好きなのか?」
褒姒はしばらく考えてから「いつかこの手で絹を裂きましたときの、あの音がいちばん好きでございます」
それからは毎日のように、絹を山と積んで彼女の前で裂いてみせました。

そうすると笑いとまではいきませんでしたが、唇が僅かにひらいて、皓い歯がきらりと光ったのです。
狂喜した幽王は官庫が空になるほど絹を使い、民の持っている絹まで徴収したのですが、
そのうち絹を裂く音に飽きた褒姒は、頬を動かすこともなくなりました。
img103.jpg
(周代の銅製水器)
ILLUSTRATED BY NANTEI

あるとき、なにかの手違いで烽火(のろし)台から、烽火が上がってしまい、
諸侯たちが軍兵を率いて都に馳せ参じるという、騒ぎになりました。
手違いと知った将軍や兵たち、拍子抜けしてその場に座り込んでしまう者もいます。

ところがそれを見た褒姒は、嫣然と笑い出したのです。
「これだ!」それからというもの、幽王はしきりに烽火を上げさせるようになりました。
しかし、妃を笑わせるだけの烽火と知った将兵は、次第に無視するようになったのです。

前に太子の座を追われた宜臼とその母は、恨みを晴らす機会が来たとばかりに、兵を集めて王都に迫りました。
幽王は烽火を上げて諸侯たちに急を告げましたが、彼らは「またあの女を笑わせたいのか」と、とりあわなかったのです。
一兵も援軍が来ない中で幽王は兵士に殺され、褒姒は捕虜になってしまいました。

捕虜になった褒姒は、その後どうなったのか記録されていませんが、
民間の伝承では自害したことになっているものが多いようです。

こうして褒姒のことを読み終えますと、彼女も決して謂われるような悪女ではなく、
運命に翻弄された女性といえましょう。

殆んど笑わなかったということは、たぶん今でいう『統合失調症』だったのではないのでしょうか。
統合失調症の要因は先天的な遺伝要因と、後天的な生育環境などによるストレスが挙げられます。
この症状は感情機能が完全に麻痺してしまい、どんな事があっても笑いもせず怒りもしないという、
精神機能の障害もよく見られるといいます。

褒姒の場合は先天的な遺伝と、親に棄てられたという生育環境があいまっての、精神障害ではなかったと思われます。
その褒姒が類稀なる美女だったこと、天も悔いていたのではないでしょうか。

しかし、こうしてみますとつくづく男というものは・・・(恥

余談ですがこの「烽火」のくだりは、イソップ童話の「狼少年」によく似ていますね。
作者は褒姒の逸話を知っていたのかどうか・・・。


まだまだ「悪女伝」は続きますが、妙に疲れましたので、ここらで一息つきたいと思います。


テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

 » »