江戸城本丸 2018年06月06日 歴史 トラックバック:0コメント:12

大奥。

大奥と聞くと、をのこは目を輝かすようで・・・
なにしろ厳選された美女が、何百人と姸を競っていたそうですから、
妄想たくましくなる筈でございます。

ところが、その大奥とは実際どんなところでしょう。
聞かれると、???となってしまいます。

そこで、前回の「将軍の一日」に続いて、ざっと大奥のことを学んでみましょう。

江戸城本丸御殿は大まかに「表」「中奥」「大奥」に分かれていました。
「表」は将軍への謁見その他の儀式のための広間や、役人たちが仕事をする座敷などがある、いわば役所エリアで、
「中奥」は将軍の住居であるとともに、将軍が書類に目を通したりする仕事の場、官邸でもありました。

そして「大奥」。将軍の私邸で、御台所(奥方)を中心に将軍の子供や奥女中たちが生活する一画です。
「中奥」とは塀で仕切られていて、「御鈴廊下」と呼ぶ長い廊下だけでつながっていました。
もちろん将軍以外は男子禁制の区画です。

大奥の女性は最盛期で3000人とも言われていますが、
その全部が全部、選りすぐりの美女だったわけではありません。
そして、ここにも厳然とした階級が存在していました。

次の図は、その大奥の構成ですが・・・
大奥
将軍のお手が付く美女は、上段の「御中﨟」と呼ばれるお女中で、
定員が8名といいますからなかなか狭き門だったようです。
稀にはその下の御次などが将軍の目にかなうこともあったと聞きますが。

その他、事務職の女中は別として下級の者は、体力で選ばれていました。
大奥の高級女中は根本的に深窓育ちですから、重いものを運ぶための要員でもありました。

ことに、奥方やお局は玄関に行くにも駕籠に乗るほどですから、
体ががっちりして力のある娘は、ほぼ間違いなく採用されました。
美女だからといって最優先でお城勤めができるわけではなかったのです。

こういった力役は町方の商家の娘がほとんどでしたが、
憧れの江戸城で勤めることが出来ても、駕籠かきや井戸汲みなどの明け暮れで、
優雅な暮らしからはほど遠いものでした。

それでもお役を離れて宿下がりすると、
「元御殿女中」として通るわけですから、方々から良縁が殺到したといいます。

一方で町方の娘でも、こういう結構な話があります。
京都の青物屋の娘「お玉」は、13歳の時に家光の側室となった「お万の方」と縁があり江戸に下ります。
初めはお万の方の部屋子となりましたが、あまりにも美しいので春日局の目にとまり家光のお側近く仕えました。

やがて家光の寵愛を受けて側室に加えられ、お玉の方と呼ばれるようになり、
その子「綱吉」が五代将軍となったため、「桂昌院」と敬われて絶大な権力を振るったのです。
江戸時代における女性の典型的な出世物語でしょう。

しかし、嫉妬渦巻く女人の館。
幸運だけではのし上がれません。
賢く、誰よりも強い意志の持ち主が頂点に立つことが出来たのです。

これ、男女問わずですかね・・・

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武者行列 2018年05月27日 歴史 トラックバック:0コメント:8

千葉氏と相馬氏。

千葉常重がここ千葉に居館を移してから、今年で900年だそうです。
記念行事の一環として武者行列が市中を練り歩きました。

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僅か八騎ほどの騎馬隊は、壮観というにはやや寂しい行列です。

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その後ろから、千葉氏と関わりのある市の首長さんが、
烏帽子、直垂姿で馬に揺られてきます。

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最後に千葉市長が現れると、沿道から黄色い声援が。。。

ところで、この日の騎馬武者は全騎、野馬追いで知られた福島県相馬市からやってきたとのことでした。
何故千葉氏の開府記念に相馬の騎馬隊がやってきたかというと、
千葉氏と相馬氏は遠い昔から縁戚だったわけです。

千葉氏は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えました。
平安時代末期、千葉常胤は平家に敗れた源頼朝を挙兵から一貫して協力したことで頼朝の信頼を得、
鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島にいたるまで、全国各地に領地を与えられました。

千葉氏を繁栄に導いた常胤の次男、師常が下総相馬に領地を貰ったのが相馬氏の始まりで、
やがて福島に移り大名として維新を迎えました。
島津氏と並ぶ有数の古い大名家です。

下に千葉氏の簡単な家系図を載せておきましょう。

千葉氏

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千葉市は観光資源が無く、ビジネス以外は通り過ぎるだけの街ですが、
せめて県内の人に関心を持ってもらおうと、このところ千葉氏を前面に出す催し物が目だってきました。

しかし、せっかく節目の900年と銘打ったからにはもっと賑々しく、
例えば騎馬武者を先払いする徒歩武者や女武者の一団とか、考えられなかったのかなあ・・・
全国には観光客が押し寄せるほどの、武者行列が数多くあります。

今回の千葉開府900年行事。
観客から「思ったよりたいしたことなかった」という声が聞こえたのは、残念なことです。


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家風 2018年03月25日 歴史 トラックバック:0コメント:12

藤堂家。

藤堂高虎という武将ほど、立ち回りの巧みな人物は居ないと思われているようです。
藤堂高虎は弘治2年(1556年)近江国犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれます。
藤堂氏は代々在地の小領主でしたが、戦国時代に没落して農民にまで身を落としていました。

はじめ近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、
姉川の戦いで武功を挙げたことで長政から感状を受けています。
天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、
浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えました。

やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えますが長続きしませんでした。
このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っています。

藤堂

やがて秀吉の弟・羽柴秀長に仕えて功績を重ね鉄砲大将まで出世します。
四国攻めにも功績が有り、秀吉から加増されてとうとう1万石の大名となりました。

天正年19年(1591年)に秀長が死去すると養子の豊臣秀保に仕え、
秀保の代理として翌年の文禄の役に出征しています。
文禄4年(1595年)に秀保が早世したため出家して高野山に上りますが、
その将才を惜しんだ豊臣秀吉が呼び戻して、伊予宇和島7万石を与えたといいますから、
よほど有能だったということでしょうね。

慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、
帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石となります。
しかし慶長3年(1598年)秀吉の死去すると徳川家康に急接近します。
次の天下人と確信した鋭い読みといえましょう。

藤堂B
(藤堂高虎の兜)

関ヶ原の戦いでは家康軍に加わり大谷吉継隊と死闘を演じ、
更に脇坂安治や多くの西軍大名に対して、東軍への寝返りの調略を行っていました。
戦後、これらの軍功により家康から新たに12万石が加増され、
大阪の陣を経て家康の信頼ますます深く、ついには伊勢津32万石という大大名に上り詰めたのです。

家康の死後は二代将軍秀忠に仕え、外様大名でありながら譜代大名格として重用されましたが、
寛永7年(1630年)江戸の藩邸でその波乱の生涯を閉じました。享年75。
その後も藤堂家は幕末まで32万石を守り続けましたが、
鳥羽伏見の戦いでは迷わず勤皇側に付いて、逃げる幕府軍を後方から銃撃したといいます。
そのため諸人に「さすが藩祖高虎の家風」と皮肉られたそうです。

高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢といわれ歴史小説ではあまりよく書かれていません。
しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を貰い、
かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前でしたから、何度も主君を変えるのは不忠でも変節漢でもなかったのですね。

高虎は武勇武略に優れ、加藤清正、黒田官兵衛と並ぶ城郭建築の名人でもありました。
秀吉、家康がその才能を重宝したのも頷けます。
しかし、その先を見る眼というか嗅覚の鋭さが、後世に「世渡り上手」と評される所以だったのでしょう。


家風といっては失礼かも知れませんが、蜂須賀という大名がいます。
家祖は蜂須賀小六で早くから秀吉に従い、秀吉の天下取りに功績があった人物です。
阿波徳島17万石の大名となりましたが、秀吉に仕える前は夜盗だったと言われています。
実際は尾張の地侍でしたが、先祖が夜盗というデマが後世に面白可笑しく伝えられたのでしょう。

蜂須賀家は明治維新の後、侯爵に列せられますが宮中に呼ばれたある日のことです。
明治天皇の執務室で待たされた蜂須賀候は、会議机の上の煙草盆にあった煙草があまりにも珍しい舶来ものだったので、
中からこっそり一本抜き出してポケットに入れようとしたその時、
部屋に入ってきた明治天皇に見つかってしまったのですね。

天皇はすかさず「蜂須賀、血は争えぬのう」。
笑いながらこう仰ったそうです。


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国立科学博物館 2018年02月04日 歴史 トラックバック:0コメント:22

アンデス文明展。

上野公園にはまだあちこちに残雪が見受けられる。

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大河ドラマで「西郷どん」が始まった影響か、西郷像の前にはこれまでなかった人だかり。

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上野公園の奥、国立科学博物館で「アンデス文明展」が開催されている。
古代文明に強い関心のある私としては、是非見ておきたい展覧会だ。

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しかし「アンデス文明」イコール「マヤ・インカ文明」と錯覚していた私には、衝撃的な展示だった。
勉強不足もいいところである。
まずインカ帝国の発祥は12世紀のことであり、
アンデス山脈の北部に興った最古の文明は紀元前3000年頃のカラルだという。

カラルからは巨大な神殿跡が発掘され、エジプト、メソポタミア、インド、中国と並ぶ最古の文明と位置づけられた。
次いで紀元前800年頃にはチャンピ文化、そして紀元前後のモチェ文化、地上絵で有名なナスカ文化と続く。
その後幾つか王国の消長を経て、アンデス一帯を征服したのがインカ帝国であった。
つまりインカとはアンデス文明の集大成のような国家だったのである。

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アンデス民族は海を渡ってきたモンゴロイドだという。その典型的な顔が左上の胸像だろう。
陶磁器においては動物や栽培植物、怪物や精霊など、独創的な形象壺が作り出さ れた。
右下は細かな織りのチュニック。

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アンデス文明といえば、なんといっても豊富な黄金である。
不思議なことにアンデスの人々は鉄を製造しなかった。
また、利器として青銅はほとんど利用されることはなく、実際には新石器段階に近かったが、
金や銀の鋳造は発達していたのである。

この「エルドラド(黄金郷」を目指して、スペイン人フランシスコ・ピサロの一隊が南米を侵略し、
1532年ついにインカ帝国を滅ぼして、スペイン領とした。
インカ帝国の滅亡によってアンデス文明も終焉を迎えたのである。

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アンデス文明では鉄、銅製品がなかったと書いたが、もうひとつ、文字を持っていなかったことも驚きである。
これは、旧大陸の四大文明や新大陸のメソアメリカ文明とは異なる最も大きな特徴だという。
代わりに縄の結び目で情報を記録するキープというものがあった。

単純な結び目だけの連続はもしかしたら、01の組み合わせだけで情報を扱う、
デジタルの原型ではないかと思ったりもした。
いまさらながらだが、知らないことは星の数ほど夥しい。

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上野に出ると必ずアメ横に立ち寄ってしまう。

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この時期にしては比較的暖かな日中だったが、夕暮れともなると突き刺すような冷気が襲ってくる。
身体を温めてから帰ろうと、飲み屋街を覗く。

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アメ横から離れた路地に、これは?と思う店を見つけた。クシヤキ酒場「ヤリキ」。
こういう寒いときは刺身より熱々の串がいいに決まっている。
まだ開店したばかりと見受けられて、いささか誘惑される。

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さっそく焼酎お湯割りと定番の牛煮込み、それと「当店一押し」という、たんあぶり刺しを注文する。
煮込みというのは、よほどでなければ不味いということはない。
お湯割りと煮込みでぬくもりが戻ってくる。

問題のたんあぶり刺しである。一押しと謳うだけあって香ばしさとたんの濃厚な旨み、
そして程よい歯ごたえには一瞬手が止まってしまった。

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さらなる一品はエリンギの串焼きである。
たぶんエリンギを一旦軽く焼いてから、焼き鳥のタレにくぐらせて更に焼いたのだろう。
タレの旨さと鶏腿に似た食感は、目から鱗であった。

若い衆の接客も心地よく、なにより料理の工夫が好ましい。
「ヤリキ満々」の居酒屋である。


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こんな筈では 2018年02月02日 歴史 トラックバック:0コメント:20

将軍はつらいよ。

みなさん、江戸時代の将軍はどんな生活をしていたと思いますか。
上座にふんぞり返って「よきにはからえ」とか、山海の珍味と美女に囲まれて鼻毛を伸ばしているような、
そんな姿ばかり想像してしまうのではないでしょうか。

ところがですね、これが現代のサラリーマンより束縛が多くてしかも多忙なのです。
その一日を追ってみましょう。

(午前6時)
起床。小姓たちが着替えさせてくれる間に立ったまま歯を磨きます。
(午前7時)
仏間でご先祖さまを礼拝、読経。
(午前7時半)
離れた部屋に居る御台所(奥さん)へ挨拶。
(午前8時)
食事。同時進行で頭と髭を剃られ健康診断も。その間身体を動かさずもくもくと食事をとります。
(午前8時半)
神殿に礼拝。
(午前9時)
学問。当代一の学者から四書・五経、兵法、漢詩・和歌、習字などを教わります。
(正午)
昼食。
こうして午前中が終わるわけですが、もうこれだけで疲れそうです。
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(午後1時)
政務。山積みにされた未決済の書類を側用人が読み上げ、裁可します。
多い時は残業になることも。
(午後4時)
武技。剣、槍、弓、乗馬、水泳などの武芸をみっちり。
(午後6時)
入浴。
(午後7時)
夕食。小姓たちが無言で給仕します。お酒は少々付きますが話し相手の無い寂しい晩酌です。

ちなみに将軍の料理はまず毒見役が味わい、しばらく待って毒のないことを確認します。
それから長い長い廊下で運ばれ、控えの間にて再び炭火で温められるとまた毒見です。
お女中が念入りに盛り付けをしてやっと将軍の前に出る頃は、すっかり冷めているわけでして。
なんと料理が出来てから将軍の口に入るまで約2時間かかったといいます。
生涯温かい料理を口にしたことがなかったのでしょう。逆に料理が温かいとお腹を壊したりして・・・
(午後8時半)
昼の政務で残った未決書類の裁可を終わらせます。いわゆる残業ですね。
(午後?時)
就寝。?時というのは残業次第で何時になるか判らないということです。
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ILLUSTRATED BY NANTEI

これ休日無しの日課ですからね。
毎晩大奥でナニしているんだろう、などとやっかまれていますが、
そんな体力が残っている筈ないでしょう。

つくずく将軍にならなくて良かったと思います。
ま、中には適当にさぼっていた方も多いようですが、
十四代の家茂さんは真面目にこの日課を実践したため、21歳の若さで亡くなっておりますです。


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