国立科学博物館 2018年02月04日 歴史 トラックバック:0コメント:22

アンデス文明展。

上野公園にはまだあちこちに残雪が見受けられる。

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大河ドラマで「西郷どん」が始まった影響か、西郷像の前にはこれまでなかった人だかり。

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上野公園の奥、国立科学博物館で「アンデス文明展」が開催されている。
古代文明に強い関心のある私としては、是非見ておきたい展覧会だ。

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しかし「アンデス文明」イコール「マヤ・インカ文明」と錯覚していた私には、衝撃的な展示だった。
勉強不足もいいところである。
まずインカ帝国の発祥は12世紀のことであり、
アンデス山脈の北部に興った最古の文明は紀元前3000年頃のカラルだという。

カラルからは巨大な神殿跡が発掘され、エジプト、メソポタミア、インド、中国と並ぶ最古の文明と位置づけられた。
次いで紀元前800年頃にはチャンピ文化、そして紀元前後のモチェ文化、地上絵で有名なナスカ文化と続く。
その後幾つか王国の消長を経て、アンデス一帯を征服したのがインカ帝国であった。
つまりインカとはアンデス文明の集大成のような国家だったのである。

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アンデス民族は海を渡ってきたモンゴロイドだという。その典型的な顔が左上の胸像だろう。
陶磁器においては動物や栽培植物、怪物や精霊など、独創的な形象壺が作り出さ れた。
右下は細かな織りのチュニック。

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アンデス文明といえば、なんといっても豊富な黄金である。
不思議なことにアンデスの人々は鉄を製造しなかった。
また、利器として青銅はほとんど利用されることはなく、実際には新石器段階に近かったが、
金や銀の鋳造は発達していたのである。

この「エルドラド(黄金郷」を目指して、スペイン人フランシスコ・ピサロの一隊が南米を侵略し、
1532年ついにインカ帝国を滅ぼして、スペイン領とした。
インカ帝国の滅亡によってアンデス文明も終焉を迎えたのである。

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アンデス文明では鉄、銅製品がなかったと書いたが、もうひとつ、文字を持っていなかったことも驚きである。
これは、旧大陸の四大文明や新大陸のメソアメリカ文明とは異なる最も大きな特徴だという。
代わりに縄の結び目で情報を記録するキープというものがあった。

単純な結び目だけの連続はもしかしたら、01の組み合わせだけで情報を扱う、
デジタルの原型ではないかと思ったりもした。
いまさらながらだが、知らないことは星の数ほど夥しい。

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上野に出ると必ずアメ横に立ち寄ってしまう。

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この時期にしては比較的暖かな日中だったが、夕暮れともなると突き刺すような冷気が襲ってくる。
身体を温めてから帰ろうと、飲み屋街を覗く。

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アメ横から離れた路地に、これは?と思う店を見つけた。クシヤキ酒場「ヤリキ」。
こういう寒いときは刺身より熱々の串がいいに決まっている。
まだ開店したばかりと見受けられて、いささか誘惑される。

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さっそく焼酎お湯割りと定番の牛煮込み、それと「当店一押し」という、たんあぶり刺しを注文する。
煮込みというのは、よほどでなければ不味いということはない。
お湯割りと煮込みでぬくもりが戻ってくる。

問題のたんあぶり刺しである。一押しと謳うだけあって香ばしさとたんの濃厚な旨み、
そして程よい歯ごたえには一瞬手が止まってしまった。

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さらなる一品はエリンギの串焼きである。
たぶんエリンギを一旦軽く焼いてから、焼き鳥のタレにくぐらせて更に焼いたのだろう。
タレの旨さと鶏腿に似た食感は、目から鱗であった。

若い衆の接客も心地よく、なにより料理の工夫が好ましい。
「ヤリキ満々」の居酒屋である。


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こんな筈では 2018年02月02日 歴史 トラックバック:0コメント:20

将軍はつらいよ。

みなさん、江戸時代の将軍はどんな生活をしていたと思いますか。
上座にふんぞり返って「よきにはからえ」とか、山海の珍味と美女に囲まれて鼻毛を伸ばしているような、
そんな姿ばかり想像してしまうのではないでしょうか。

ところがですね、これが現代のサラリーマンより束縛が多くてしかも多忙なのです。
その一日を追ってみましょう。

(午前6時)
起床。小姓たちが着替えさせてくれる間に立ったまま歯を磨きます。
(午前7時)
仏間でご先祖さまを礼拝、読経。
(午前7時半)
離れた部屋に居る御台所(奥さん)へ挨拶。
(午前8時)
食事。同時進行で頭と髭を剃られ健康診断も。その間身体を動かさずもくもくと食事をとります。
(午前8時半)
神殿に礼拝。
(午前9時)
学問。当代一の学者から四書・五経、兵法、漢詩・和歌、習字などを教わります。
(正午)
昼食。
こうして午前中が終わるわけですが、もうこれだけで疲れそうです。
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(午後1時)
政務。山積みにされた未決済の書類を側用人が読み上げ、裁可します。
多い時は残業になることも。
(午後4時)
武技。剣、槍、弓、乗馬、水泳などの武芸をみっちり。
(午後6時)
入浴。
(午後7時)
夕食。小姓たちが無言で給仕します。お酒は少々付きますが話し相手の無い寂しい晩酌です。

ちなみに将軍の料理はまず毒見役が味わい、しばらく待って毒のないことを確認します。
それから長い長い廊下で運ばれ、控えの間にて再び炭火で温められるとまた毒見です。
お女中が念入りに盛り付けをしてやっと将軍の前に出る頃は、すっかり冷めているわけでして。
なんと料理が出来てから将軍の口に入るまで約2時間かかったといいます。
生涯温かい料理を口にしたことがなかったのでしょう。逆に料理が温かいとお腹を壊したりして・・・
(午後8時半)
昼の政務で残った未決書類の裁可を終わらせます。いわゆる残業ですね。
(午後?時)
就寝。?時というのは残業次第で何時になるか判らないということです。
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ILLUSTRATED BY NANTEI

これ休日無しの日課ですからね。
毎晩大奥でナニしているんだろう、などとやっかまれていますが、
そんな体力が残っている筈ないでしょう。

つくずく将軍にならなくて良かったと思います。
ま、中には適当にさぼっていた方も多いようですが、
十四代の家茂さんは真面目にこの日課を実践したため、21歳の若さで亡くなっておりますです。


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佐々成政 2018年01月21日 歴史 トラックバック:0コメント:6

いちがいもん。

「いちがいもん」とは越中弁で頑固者、一徹者のことをいう。
戦国の武将、佐々成政の生涯はまさに「いちがいもん」に相応しいものだった。

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佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)

佐々成政は尾張国春日井の土豪だったが、織田信長に仕えて戦功を重ね、織田家の有力な武将となった。
信長の天下統一の戦いでは筆頭家老・柴田勝家の右腕として、
当時最強といわれていた上杉軍と戦い、北陸の平定に力を注いだのである。

その功を認められて、越中一国を任されるようになった。
しかし信長が本能寺で非業の死を遂げると、成政の運命は暗転する。
信長の仇を討ったのは、この人ならと信じていた柴田勝家ではなく羽柴秀吉だった。
あろうことか、やがて秀吉はその勝家を滅ぼして、天下人に駆け上がったのである。

誰よりも秀吉を嫌い軽蔑していた成政は、秀吉の天下を認めず最後まで抵抗しようとあらゆる手を尽くす。
執念の塊りとなった成政の、鬼気迫る行動といえば雪の立山越えがあまりにも有名である。
『さらさら越え』と呼ばれる決死の冬山越えだった。

当時、秀吉に対抗できる勢力といえば、徳川家康しか居なかった。
その家康と秀吉は小牧長久手で戦ったが、いつの間にか講和を結んでしまったのである。
秀吉をどうしても引きずりおろしたい成政は、家康に再び立ち上がるよう説得するため浜松へ向ったのだった。

しかし、浜松へ向う平地は全て秀吉方の大名で占められていたため、
立山越えという危険なルートを選んだのである。

成政一行が富山を出発したのは天正12年11月23日だった。
立山弥陀ヶ原を越えて信州上諏訪に出たのが12月1日。
途中、従ってきた家臣100名余りのうち半分近くが命を落としたという。

家康の居城浜松には12月25日に到着。
さっそく家康と談合に及んだが、家康はのらりくらりと言質を与えず、
失望した成政は再びの山越えで富山に戻らざるを得なかった。

天正13年1月4日、浜松を出立した成政一行が、富山に到着した日は記録に残ってないが、
約2ヶ月に及ぶ山越えの往復は、失うものの多い徒労に終わったのである。

こうして佐々成政は孤軍となった。
当然、彼の動きを察していた秀吉は、10万という大軍で越中に攻め入ったのである。
もはやこれまでと観念した成政は、頭を丸めて秀吉に降った。

秀吉はその成政を許したばかりか、後に九州の肥後一国を与えるという破格の処遇を与えたのだ。
天下を定めて間もない秀吉にとって、度量の大きいところを諸大名に見せる必要があったのだろう。

しかし、意気込みこんだ成政は性急な検地を行なったため、それに反発する地侍が一斉蜂起し、
これを自力で鎮めることができなかった失政を、秀吉に咎められて切腹させられたのである。享年53。
「いちがいもん(一徹者)」「手もじゃ(不器用者)」でもあった。

土豪・地侍が割拠する治めにくい肥後を与えたのは、最後まで心服しなかった成政に対して、
秀吉が企んだ陰湿な仕返しと言われている。

成政の辞世は、
「この頃の厄妄想を入れ置きし 鉄鉢袋今破るなり」
己の不運、また理不尽への恨みが込められているような辞世である。



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2017年09月20日 歴史 トラックバック:0コメント:20

銭湯の歴史。

私が子供のころは、お風呂のある家なんて聞いたこともなく、
身体を洗うのは行水か、銭湯というのが当たり前だったのです。
社会に出てアパート暮らしになっても、銭湯通いでした。

「神田川」で歌われている、
♪小さな石鹸カタカタ鳴らし♪ の世界でした。

もっとも、
♪二人で行った横丁の風呂屋♪ のような甘酸っぱい記憶は皆無でしたが。

ところで、銭湯または風呂屋はいつ頃出現したのでしょうか。
落語では「浮世風呂」「芝居風呂」「風呂番」など、風呂屋を題材にした噺が少なくありません。
古典落語というのは殆ど江戸時代が舞台ですから、風呂屋の始まりは江戸期ではないかと思われます。
ではそれ以前、公家や武家以外の内風呂を持てない庶民はどこで体を洗っていたのでしょうか。

くだらないことに興味を持つ南亭。
さっそく図書館で関連の書籍を漁ったものです。

その中の『日本風俗史』によると、鎌倉末期に銭湯が出現し、
室町時代には京の公家たちが町湯、町風呂を利用したという記録が残っています。
ただ、庶民が銭湯を使ったというのは、ずーっと後の話なんですね。

ともあれ、記録に残っている銭湯の歴史を追ってみましょう。

天正18年(1590)
大阪に風呂屋が出現
天正19年(1591)
江戸に初めて銭湯ができる
慶長5年(1600)
銭湯で武士の喧嘩事件があり、武士の銭湯通いが禁止される
寛永10年(1633)
江戸に湯女風呂が流行し吉原が衰退する
正保2年(1645)
風呂屋に客が宿泊することを禁止
慶安1年(1648)
江戸市中の湯女を禁止
「店法度書き」で男湯・女湯別に張り出すことを命じられる
慶安5年(1652)
この頃、男女とも入浴には風呂褌の着用を義務づける
寛文5年(1665)
市中一般の銭湯、このころから盛んになる
宝永5年(1708)
江戸の民家に蒸し風呂が取り入れられる
寛政3年(1791)
男女混浴が禁止される
天保3年(1831)
浴槽内に踏み段をつける銭湯が現れる
明治5年(1872)
明治新政府が、改めて男女混浴を禁止する
明治20年(1887)
横浜に現れた薬湯「昇休館」が有名になり、薬湯が流行し始める
大正10年(1921)
この頃、銭湯にタイル張りの浴槽が現れる
大正12年(1923)
モダン風呂が出現。コンクリート建て、タイル張りなど新様式の銭湯が増える
昭和2年(1927)
東京の銭湯にカラン(蛇口)が使われるようになる

こうして見ますと、銭湯が庶民の間に定着したのは、矢張り江戸時代ということになるのですね。
そして風呂屋というのは、常に風紀の取り締まり対象になっていたということでもあります。
「湯女」「混浴」の禁止、また「風呂褌」の着用など度重なるお触れが出たのは、さもありなんということでしょう。

銭湯といえば中学のころ、学校でアイヌ民族舞踊団の公演がありました。
その何日か後、銭湯に行ったところ湯船の奥にいたのは漆黒の濃い髭と眉を持った人でした。
どう見ても舞踊団の中心にいたおじさんでした。
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ILLUSTRATED BY NANTEI

当時の行商人や旅芸人たちが泊まる旅籠には、風呂の無いところが多かったのでしょう。
そんな様々の人たちが垢を流した銭湯も、内湯を設えた住まいが増えるにしたがって、徐々に姿を消していったのですね。



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日本最初の 2016年08月06日 歴史 トラックバック:0コメント:14

ピストルXX。
川路聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期の幕臣である。
豊後(大分県)日田代官所の役人の家に生まれたが、稀にみるみる才幹を認められ、
幕吏としての出世コースを歩むことになった。
佐渡奉行、大坂町奉行、勘定奉行と要職を歴任するようになった川路は、
当時の海外事情や西洋の技術などにも通じていたことから、
外務大臣ともいうべき外国奉行を命ぜられ、日露和親条約の調印に尽力する。

次いで日米通商条約の締結を目指すが、朝廷の強い反対で挫折した川路は、
大老に就任した井伊直弼の一橋派排除に伴い、閑職に左遷された。
(病弱で暗愚だった13代将軍家定の後継を巡って、一橋慶喜を推す水戸藩主斉昭、松平慶永、島津斉彬、山内容堂らと、
紀州の徳川慶福を推挙する井伊直弼、会津藩主松平容保らが激しく対立した結果、
井伊たち南紀派が勝利して慶福は14代将軍家茂となった。大老となった井伊直弼は、対立した一橋派を弾圧する)

川路は一橋派に連なると見なされたのである。

その後病気を理由に引退した川路だったが、中風による半身不随や弟の死など不幸が続く。
慶応4年(1868年)、ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。
その日は新政府軍による江戸総攻撃の予定日であった。
病の体が戦の足手まといになることを恐れてのこととも、また、滅びゆく幕府に殉じたとも。

ピストルを用いたのは、半身不随のため刀ではうまく自決できないと判断したからだと言われている。
こうして川路聖謨は、日本における最初のピストル自殺者となったのである。

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ILLUSTRATED BY NANTEI

川路聖謨は子供の時に疱瘡を患い、あばただらけだった。
おまけに窪んだ金壺眼であり、非常な醜男と自ら評していた。

日露交渉の際、ロシアの使節たちは川路の人柄に魅せられて、写真を撮ろうとしたが、
川路は「私のような醜男を日本人の代表と思われては困る」と発言して彼らを笑わせたという。
全権使節プチャーチンは帰国後に
「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどの、ウィットと知性を備えた人物であった」と書いている。

この後、明治20年にはプチャーチンの孫娘オルガが、
川路ゆかりの地・静岡県戸田村を訪れ、100ルーブルの寄付をした。
以降も両家の交流は続き、平成20年には日露修好150年を祝ったそうである。


緑陰


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