琉球の歴史③ 2016年06月23日 沖縄 トラックバック:0コメント:10

化外。
化外(げがい)とは古来より中国が、蛮族または文化の届かないところを指した呼び方です。


1868年、倒幕の嵐を受けて明治維新となりますが、琉球はかやの外に置かれていました。
ただ薩摩との関係で、ある程度の動きは知っていたようです。
一方新政府は日清両属の体裁にある琉球をどうするか、悩んでいました。

そんな中、宮古島の船が那覇に赴く途中で嵐に遭い、台湾に漂着したところ、
現地人に襲われて54人が犠牲になるという事件が起きたのです。
日本は清の責任を追及しましたが、清朝は台湾を「化外(げがい)の民」であるとして、
責任を回避しようとしたのを幸い、政府は台湾出兵を決断しました。

この事件を好機として、政府は具体的な琉球処分に取りかかりました。
琉球の管轄は鹿児島県から内務省となり、その内務省は清朝への貢物の停止、日本年号の採用などを命じたのです。


ここに至って琉球は激しい抵抗を展開します。
アメリカやフランスへは独立国琉球を日本が併呑しようとしていると訴え、
また中国への嘆願活動も活発に行われました。

焦った日本政府は軍隊と警官隊を琉球に派遣した上で、廃藩の布告を通達、強引に首里城を接収したのです。
ここに500年に及んだ琉球王国は廃され、沖縄県が設置されたのでした。
明治12年3月のことです。

井戸端
「井戸端」。大嶺政敏・画

無理矢理琉球を併合した日本政府は、中国清朝と取引を始めます。
なんと、琉球の一部宮古、八重山を清朝に譲る代わりに、
中国での西洋並みの商活動が出来るような、通商条約を求めるというものでした。

この条約は琉球に移住していた多くの清国人が、北京へ反対の嘆願に赴いたため、
批准の動きは止まってしまったのですが。

それにしても無理矢理琉球を日本に組み入れたかと思えば、
今度は琉球人の知らないところで、琉球を切り売りしようとしたのですね。

さながら《化外》扱いだったわけです。

秀吉の時代から始まった琉球への属国扱いは以後の政権にも引き継がれ、
太平洋戦争では、連合軍の本土上陸を遅らせるための防波堤として、多大な犠牲を強いられるに至りました。
そして戦後は米ソの駆け引きの材料にされた末、現在も事実上アメリカ軍の支配下にあるといっていいでしょう。

今日、6月23日は『沖縄慰霊の日』。

沖縄にとっては、この日が終戦日なのです。
皆さまが購読なさっている新聞、今朝はどの紙面でどんな扱いになっているでしょうか。
きっと、参院選関連の報道で埋まっていることと思いますが。


なお、「沖縄慰霊の日」また、大嶺政敏画伯については、
右上の《沖縄》をクリックして過去の関連記事をご覧になってください。


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琉球の歴史② 2016年06月22日 沖縄 トラックバック:0コメント:0

中国と日本の狭間で。

尚円王の死後は、世子の尚真が王位を継ぎました。
尚真王はアジア諸国との交易を盛んにして、王府の財政基盤を盤石のものにしました。

また地方の首長たちをその領地から首里に住まわせ、
武器の携帯を禁じるなど、それまでにない中央集権を確立するとともに、
奄美大島から宮古島に到る一大海洋国を作り上げたのです。
尚真王の治世は50年に及びましたが、この黄金時代は「嘉靖(かせい)の栄華」と呼ばれています。

しかし、繁栄を誇った第二尚氏王朝も、16世紀の中頃になると衰退へ向かいます。
アジアの海域で民間の交易が活発化し、琉球の活躍する場は次第に奪われていきました。
また、中国で貨幣経済が進展したことも大きな要因でした。
大量の銀が必要となった中国は、世界の銀生産量の3分の1を占める日本との交易を、重視するようになったのです。
銀を産出しない琉球は苦境に立たされていきます。

その頃日本では豊臣秀吉が天下を統一し、やがて朝鮮に侵攻するのですが、
琉球にも薩摩の島津氏を通じて、圧力が加えられていきます。
しかし秀吉の野望はその死によって頓挫し、やがて豊臣家も滅亡することはご存知でしょう。

次の徳川政権も琉球に隷属を迫るようになります。
中国清朝との関係を重視する琉球は、当然拒否します。
すると薩摩の島津氏が幕府に琉球侵攻を願い出て、1609年ついに3000の薩摩軍が琉球に侵攻しました。
歴戦の猛者、薩摩兵はまたたく間に首里城を陥して国王尚寧は捕えられ、日本に連行されてしまいます。

2年後、尚寧は琉球王に戻されますが薩摩藩の支配下で、様々な政治的規制を受けるようになりました。
ここに、古琉球の時代は終りを告げたといっていいでしょう。

首里風景
「首里風景」。大嶺政敏・画

島津の侵入後、琉球は石高制の導入をはじめ、幕府・島津の法令や指示に沿って、
更に日本へのすり合わせが求められるようになりました。
しかし、島津藩主の参勤交代に随って江戸に上る時は、異国の衣装を身にまとい、
異国の音曲を奏でながらの行列を強いられたのです。

これは引率する島津の権威を高め、その島津を従える幕府の権威を高めるものとなりましたが、
琉球はまた中国清朝に朝貢する立場でもありましたから、
日中両大国の狭間で巧く交際してゆくには、想像以上の苦悩があった筈です。

一方、琉球を手に入れた島津ですが、税収はもとより琉球を経由した密貿易によって、
莫大な利益を得、それが倒幕の原動力になってゆくのですから、歴史の綾というのは不思議なものですね。

幕末になると琉球には多くの異国船が現れるようになります。
ペリーの艦隊も1853年から5度、那覇に寄港して強引に交渉を迫りましたが、
琉球王府はのらりくらりと引き延ばしを続けるだけでした。

そんな中、ぺりー艦隊の水夫が琉球の女性を襲うという事件が起りました。
水夫は島民の怒りを買い石をぶつけられて、ついには海に追い落されて溺死するのですが、
ペリーは水夫の非を陳謝したものの、彼を死に追いやった犯人の引き渡しを要求したのです。

群衆による行為で特定の個人の所業ではない、としながらも困惑した琉球王府は、
身代わりを差し出して事態を収拾しようとしました。
多大な好条件に吊られた島民の一人が、身代わりとなってペリーに引き渡されましたが、
恫喝の効果に満足したペリーは、琉球で裁くようにと伝えてきたのです。

琉球王府はこの身代わりを流刑にする、とした判決文をデッチ上げてペリーに提出し、一件落着となったのですが、
この出来事はつい最近の、そして戦後の沖縄に幾度も起きた、不幸な事件と重なる気がしませんか。

さて、明治維新後の新政府は、琉球をどのように扱ったのでしょう。



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琉球の歴史① 2016年06月21日 沖縄 トラックバック:0コメント:5

貝塚時代から王国へ。

私たちは、小学校の頃から「日本史」というものを教わってきました。
その「日本史」とは、あくまでも中央政権を中心とした歴史です。

朝廷と貴族政治から武家政権へ、戦国時代を経て幕藩体制に至り、
そして明治維新を迎えるといった殆んどの出来事が、中央権力の興亡といっていいでしょう。

しかし、岩手には岩手の、大分には大分の・・・
更にアイヌ民族にはアイヌ民族の、誇るべき歴史があった筈ですが、
歴史教育の大きな目的の一つは、国民意識を育てることにありますから、
当然、地方や少数民族の歴史は脇に置かれるわけです。

中でも沖縄の歴史については、本土の人々にとって考えてもみないことでしょうね。
私もその一人ですが、沖縄の何故を少しでも理解したいため、
その歴史から学んでみたいと、何冊かの「琉球史」を捲ってみたのです。

せっかくなので、私なりに纏めた「琉球の歴史」を投稿しようと思ったのですが、
簡潔で伝わり易い文章作りというのは非常に難しいものですね。
私自身の学びのためにも、よく咀嚼して書こうとしたのですが、労多くしてなんとやら・・・。
ま、興味がありましたら、我慢して読んでみてください。


琉球が新石器時代を迎えたのは6000年前といわれています。
その新石器時代は日本の平安時代後期まで続くのですが、
このことは琉球がそれまで中国、また朝鮮や日本との交流が無かったことを示すものでしょう。

狩猟、漁労を主にする琉球に稲作が始まったのは、12世紀初頭の頃でした。
定住型の農耕社会が成立すると、村落が集合したりして地域共同体が出現します。
この過程は中国も日本も同じですね。

共同体はそれぞれ石を積み上げた城(グスク)を築き、勢力を拡大しようとします。
地域同士の抗争が続く12世紀から15世紀までを、グスク時代と呼びますが、
やがて広い地域を支配する首長(アジ)の中から、統一者が現れます。

沖縄の踊り
「沖縄の踊り」。大嶺政敏・画

12世紀の中ごろに浦添一帯を支配していた尊敦(そんとん)というアジが、
諸侯に推されて王位に即いたと琉球史にありますが、
尊敦の祖父は我が国で起こった保元の乱に敗れて、
伊豆に流された源為朝と伝えられているそうですから、信憑性はありません。

最初の王として実在したのが、英祖という浦添のアジ(首長)だった人物で、
瓦葺きの王城や極楽寺などの大寺院を造営し、
周辺の島々との交易を盛んにした名君でもありました。

英祖の王朝は五代続きましたが、次第に世が乱れて王国は分裂します。
次に国を統一したのは、察度(さつど)という王でした。
察度王の代で大きな出来事といえば、中国明朝との交易が始まったことです。

しかし琉球も当時の周辺諸国と同じく、中国に貢物を進呈し人質を送るという、
隷属の関係が以後500年に渡って続くのです。

いずれにしても、この頃から中国はもとより、東南アジアとの交易も盛んになり、
交易国家としての琉球は大きく発展してゆくのですが、察度王朝は二代で滅びてしまいます。

次に王となったのが、希代の英雄と称された尚巴志(しょうはし)でした。
1354年のことです。
尚王は沖縄本島に統一政権を樹立し、首里城や那覇港を造営するなど、
現在見られる沖縄の原型を創出したことでも知られています。

1415年、尚の子孫は重臣だった金丸の反乱で滅びますが、
金丸もまた尚円と号したので、この王統を第二尚氏と呼んでいます。
その第二尚氏は以降400年の間、琉球に君臨する長期王権となるのです。

なお、琉球の王は「世の主」と称されていました。




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沖縄返還 2016年05月18日 沖縄 トラックバック:0コメント:12

44年目。
沖縄の本土復帰から44年が経過しました。
沖縄といえば米軍基地の存在がなんといっても最大の課題ですが、
貧困も深刻な問題を抱えています。

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大嶺政敏・画『小浜島』

沖縄の貧困率は本土の2倍以上。
県別の貧困率に関する最新データでは、
全国の相対的貧困率が14.4%であったのに対し、沖縄県は2倍以上の29.3%でした。

母子世帯率・児童扶養手当の受給率も、沖縄は全国の概ね2倍にあたります。
生活保護率は全国で5位。10代女性が母親になる若年出産率は11.7%。
いずれも、貧困の深刻な状況を伺わせる数字です。

その大きな背景は以下のような理由からだと言われます。

1点目は、第二次大戦末期の沖縄戦が地上戦で、子どもも巻き込まれたことです。
沖縄戦では県民12万人が犠牲になり、人口比では4人に1人という割合です。
犠牲者を年代別に見ていくと、10歳未満が2万4000人、10代が2万人、20代が2万8000人。
合計で7万2000人。死者の60%は20代もしくは20代以下だったということになります。
これからを担う世代と子どもが数多く亡くなったのです。

2点目は、米軍の統治が1972年まで続いたことです。
まず、沖縄戦で孤児となった子どもたちを米軍は一時的に孤児院に収容しましたが、
養育し続けるつもりはなかったらしく、その後は県内で引き取り手を探していました。
簡単な手続きで子どもたちは引き取られていき、「新たな悲劇」につながったといいます。
子どもの育ちを守るための法制度整備の動きも、占領下の沖縄では遅れざるを得ませんでした。

児童相談所の設置は1954年のことでした。
この後、捨て子・家出児童・浮浪児・人身売買の問題が表面化します。
子どもが米軍基地内の食糧を盗もうとし、射殺されたり軍法会議にかけられたりすることもあったといいます。
人身売買や家出児童の問題は1955年以後に増加しました。

引き取ったはいいものの、孤児たちを育てられなくなったわけです。

1972年の本土復帰後はどうなったのでしょう。
戦後27年間の格差是正のための経済復興計画に、実に8兆円が投入されましたが、対象は主に「道路・ダム・箱もの」でした。
沖縄の地元に還元されなかったため「ザル経済」と呼ばれ、
その間にも子どもの貧困は深刻化し、格差は拡大していったのです。

また、以前に何度も書きましたが産業が少なく、特に二次産業が全体の一割という沖縄ですから、
島内で就職先を探すのも難しく、貧困率は一向に改善されないのが現状です。

貧困-不十分な教育-少ない働き口-更なる貧困・・・
沖縄の貧困は、ネガティブスパイラルを回り続けています。

青い海と青い空、まばゆいばかりに陽が降り注ぐ常夏の島。
そんな開放的な印象を持たれる沖縄ですが、
その陰には出口の見つからない闇が、大きく横たわっているのです。


これまでの沖縄の話、また大嶺画伯については、右上のカテゴリー『沖縄』をクリックして過去記事をお読みください。

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もうひとつの70年 2015年06月23日 沖縄 トラックバック:0コメント:20

《島唄》の意味。

今年は終戦から70年。8月には全国至る所で追悼の行事が催されると思います。
そして現総理の戦後70年周年談話が気になるところですが、
「(戦前の)日本を取り戻す」という執念に凝り固まった首相の言は、今から白々しいものを予想させます。

さて日本本土では8月15日が終戦となっていますが、沖縄は今日がその日に当ります。
沖縄では毎年6月23日を《沖縄慰霊の日》として、各地で慰霊祭が催されてきました。

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「サバニ」:大嶺政敏・画(サバニとは琉球列島で古くから使われている漁船のこと)

一般住民9万4000人を含む20万あまりの尊い命と財産や沖縄の文化財、自然がことごとく奪われた沖縄戦は、
太平洋戦争で唯一、一般住民が地上戦を体験したという、まさに地獄そのものの戦いでした。
この沖縄戦で、沖縄防衛軍司令官の自決した日が昭和20年6月23日だったことから、
この日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ、沖縄慰霊の日が制定されたのです。

しかし沖縄の苦痛はこれで終ったわけではありません。
以後占領下に置かれてやっと日本に返還されたのは、27年後の1972年のことです。
そして返還されたとはいえ、沖縄本島の18%超、沖縄全土では10%超の面積を、
米軍基地が占有しているのは周知のことだと思います。

また近年では普天間基地から辺野古への移転を巡って、激しい賛否の応酬が続いていることはご存じでしょう。
この基地問題、私たち本土の人間にはなかなか理解できないところがあります。
短絡的に考えれば沖縄から米軍が出てゆくことが最善だと思われるでしょう。

では当事者の沖縄県民が、何故基地の存続に対して賛否が拮抗するのでしょうか。
それは、基地の恩恵を受けている人が多いことにあります。
基地で働く沖縄県民は約9万人、基地をビジネス相手とする企業や商店は数限りなく、

基地周辺の商店は全て米軍相手といっても過言ではありません。

産業が少なく、特に二次産業が全体の一割という沖縄では、基地が大きな就業先でした。
基地で働くには何年も前から空きを待っていたという時代もあったそうです。
男に働き先の少ない沖縄では、妻が夜の仕事で暮らしを成り立たせていました。
実際に那覇では託児室付きのクラブが何軒もあったことに驚き、次になんとも言えない気持になったものです。

こうして生活を基地に頼る県民が少なくないことに加えて、
年間3,460億円の沖縄振興予算(平成26年度)は中央政府の匙加減次第という弱みもあります。
現に辺野古への新基地建設に反対する翁長雄志知事の誕生で、政府は来年度の沖縄振興予算を減額する方針だといいます。
賛成派にとっては恰好の反撃材料になるわけですが、果たしてどちらが是でしょうか。

もちろん良識という観点からは、沖縄の米軍基地に否を唱えるべきでしょうけれど、
では経済的安定と発展を望むのは良識に反するのか、と問われると沖縄に限っていえば沈黙してしまうのです。
それほど沖縄と基地とは70年という長きにわたって、私たちには立ち入ることのできない愛憎を積み重ねてきたのだと思うのです。

そして沖縄の問題は本土の多くの人々にとって、対岸の火事なのかもしれません。
私もその一人でしたが、幸いにも沖縄出身の大嶺画伯の知己を得たことと、
何度か沖縄を訪れる機会があったものですから、沖縄の抱える複雑さに頭を巡らすようになったのです。

かといってまだまだ学びが足りない私なので、よくこなれていない文章で恥ずかしいのですが、
みなさまにはせめて今日の《慰霊の日》だけでも、沖縄を気にしていただきたい、
沖縄の問題はこの国の縮図でもあることを知ってもらいたいと思い、こうして拙い記事を投稿した次第です。

ところで『島唄』という沖縄民謡はご存じでしょうね。
しかしその『島唄』には、裏歌詞があることは知られていないと思います。むしろこちらのほうが表の歌詞なのですが・・・
説明は抜きにして、その歌詞をご覧いただきましょう。



最後に、こんな話を聞いたことがあります。
名刺の住所に「沖縄県」としないで「沖縄・XX村」などと刷る方が何人もいらっしゃるという。
その一人に「どうしてですか」とたずねると、
どうしても、ヤマトの『県』は使えなくてね。本土と格段に違う基地の重圧を押しつけた本土復帰。
その代償で生まれた『県』を認めるのは、魂まで平定されたことになるから。



大嶺画伯と沖縄については、ご面倒ですが右上の「沖縄」をクリックして過去記事をご覧になってください。



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