あれから半世紀 2015年12月03日 記憶 トラックバック:0コメント:26

落書き少年。
中学に入った頃から、授業中にノートへ落書きするようになった。大概マンガだった。
マンガ本が続々と刊行され、また少年雑誌も2誌3誌と増えていった時代である。
新刊書を買う余裕のない家庭だったから、私は同級生の親が営んでいる貸本屋で、
放課後、そして休日も入り浸りマンガ、漫画、マンガだった。

漫画中毒となった私は、授業中もノートの端に「鉄腕アトム」や、
「赤胴鈴之助」「宇宙少年ソラン」などのシーンを描き散らしていたのである。当然教師に見つかる。
頭に拳骨を食らい時には教室の前で立たされた。

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ILLUSTRATD BY NANTEI

立たされながら、みんなに変顔をして見せるものだから教室がどっと沸いて、
それがためになおさら教師の怒りを買っていたものだ。

いつからかわからないが落書きは似顔絵が多くなり、特に教師の似顔に没頭したのである。
周りに見せると大受けだったから余計調子に乗って描きまくり、ために拳骨と立たされの回数は増していった。
そのうち友人たちの顔も描くようになり、それは大学時代さらに社会人になってからも続くのである。

その殆んどは消失してしまったが、数枚のすっかり日焼けした紙が残っている。
いずれも落書きしたノートのページを引き千切ったものだ。

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これは高校の時、社会を教えていたR教諭である。
優しい先生だったから、意地悪な描き方はしていない。

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もう一枚は、同じく高校時代につるんでいた悪友たちと、級友の下宿先に集まって酒盛りした光景である。
未成年のくせになんだ!と言われるかもしれないが、
当時の田舎では中学を出ると「青年団」に組み込まれ、会合の折りには大人たちから酒を飲まされていた。

この下宿先で呑んだのは、「合成酒」という怪しげな酒だった。
アミノ酸をエチルアルコール液で溶解し、電流を通すとアルコールになるという聞くだにヤバそうな酒であり、
非常に安く手に入るので、高校生の酒盛りにはうってつけだったのだが。
その分、すこぶる下品な酒で、あっというまに狂乱の場となったのである。

自分で言うのもなんだが、みんなそっくりである。
あれから半世紀余り、この仲間はまだ全員しぶとく生きている。
落書き少年だった私だが漫画家にも画家にもなれず、ありふれた勤め人として定年を迎えた。

落書きはまだ数枚残っているが、それは追い追い・・・


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南日和 2014年12月03日 記憶 トラックバック:0コメント:24

なんだろ・・・。
大人になってみると、たわいのない話だがその昔は、子供にとって摩訶不思議なことが一杯だった。
特に大人の世界には・・・。

和尚。
私は小学6年の頃、関西から北陸の富山へ越してきて、
暫くは菩提寺だった古刹の宿坊で仮住まいしていた。

寺住まいは何から何まで珍しく、中でも和尚という存在は不可思議なものだった。
厳格な曹洞宗の偉いお坊さんとだということはそれとなく聞いていて、
確かに本堂での説法では、聞いている檀家の老若男女が、有難やとばかりに手を合わせ、
時には目がしらを押さえたりするのを垣間見ると、なるほど偉い人なんだと納得したものだが。

寺の食事はよほどのことが無い限り、規則正しい。
朝は方丈で住職を囲み、昼と夜は住職抜きの庫裏(台所)で食べる。
方丈とは住職が生活する空間のことで、曹洞宗においては住職本人のことも方丈と呼ぶ慣わしがある。

さて方丈での朝食のことだが、和尚の他には何故か庵主それに修学の若い僧侶。
加えて祖母と私の五人、時には早朝から境内を掃除する奉仕の檀家二三人を招くこともある。

朝食はお粥と味噌汁、香の物に時折り炒り豆腐などが添えられて、
戦後間もなくとしては十分に豊かな食卓だったのではないか。

偉い和尚さんが同席してるといっても、場は和やかなものだった。
ありふれた世間話をしながら、和尚は時々私に「もう慣れたが?」などと気を使ってもくれた。

その和尚の咀嚼は遅い。食べ終わると茶碗に茶を入れて口をもごもごする。
口を開けたとみるや標本のような上下の入れ歯を取り出し、
箸でつまんだ沢庵で丁寧に洗うのだ。もちろん茶碗のお茶で。

洗った入れ歯を嵌めると、その沢庵をぼりぼりと咀嚼する。
そして入れ歯を洗った茶碗の茶をゆっくり呑むと「んなら・・・」と合掌して、《神聖》な朝食は終るのだ。
早くに食べ終わった私たちは、それまで神妙に待っていなければならない。

それにしてもせっかく洗った入れ歯だったのに、沢庵の切れ切れは気にならないのだろうか。
子供ながらも不思議に思ったのと、偉いといわれる和尚も、
普段の振る舞いはそこらのオジさんとどっこいどっこいかな、と感じた少年だった。

傷痍軍人。
同じ頃、街の辻や神社の入り口には白衣の男、それも片手や両脚を失くした男たちが、
ハーモニカを吹いたり中にはアコーディオンを弾いたりして、喜捨を求めていた。
戦争で手足を失った「しょういぐんじん」だと聞いたが、子供心には不気味な存在だった。

ある日の夕暮れ、何かの使いで神社の前を通ると、
松葉杖を突いた片脚の「しょういぐんじん」さんが神社の裏手に入って行くのが見えて、
もしかしたらこの神社で寝泊まりしているのかもしれない、なんて暫く眺めていたら、
小さな社の裏から出てきたのは背広姿の男だった。

松葉杖もなくしっかりと両脚で歩いている。
鳥居の陰から見ていると、男は悠然とネオンがきらめき始めた街へ消えていった。

蝦夷の人。
中学校では二度ほどアイヌ民族舞踊団の公演があった。
全校生徒が講堂でその歌や踊りを観させられた。

その何日か後、一日置きぐらいに通う銭湯でのことである。
湯船の奥にいたのは漆黒の濃い髭と眉を持った人だった。
たしか、あれは舞踊団の中心にいたおじさんだ。どう見てもそうだ。
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ILLUSTRATED BY NANTEI

どういうことだろう・・・


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南日和 2013年12月13日 記憶 トラックバック:0コメント:32

死とNANちゃん。
シューベルトの有名な作品に「死と乙女」という弦楽四重奏曲があります。
これからお話しすることは、この名曲の浪漫とはおよそ程遠いような、
寒々しい体験談ですから、そのつもりでお読みください。

他の人と比べたことは無いのですが、
子供の頃の私は思いがけずたくさんの死を目にしたような気がします。
それも自然死ではなくて事故死とか自殺といった光景をいくつか、 目撃してしまったのです。

でも、一番最初に衝撃を受けたのは、田舎の火葬場でした。
誰の葬儀だったかもう覚えていませんが、まさに野辺の送りのような葬列に加わったときのことです。
原っぱの中にぽつんと火葬場がありました。

陶芸の窯のようなところに、ほとけさまは棺桶ごと入れられました。
その窯には小窓ほどの覗き穴があり、そこから燃え盛る炎が覗いていたのですが、
その炎の中で突如、人影が起きあがったのです。

私は咄嗟に目を瞑ってしまいましたが、周りから「なんまんだー、なんまんだー!」
という声が一斉に湧き起こったのを、今でも覚えています。

ずいぶん後から聞いたことですが、炎で焼かれた遺体は収縮していた筋肉が切れて、
その勢いで起きあがったように見えることがあるそうです。

さて、それからのことを、ひとつひとつを詳しく書くには紙面に限りがありますので、
なるべくかいつまんでお話しすることにしましょう。

まず小学校6年生のとき、二上山という小高い山に同級生と遊びに行ったときのことです。
その雑木林で首吊り死体を見つけたのが始まりで、
日を置かずして遭遇したのが、景勝の地として名高い雨晴海岸での溺死体でした。
大きな荷物が漂っているようで、波打ち際に寄ってみると手らしいものが見えたのです。

次に中学1年の時には百貨店屋上からの飛び降り現場を目の当たりにし、
翌年の夏は列車に轢かれた女性を目の前で見てしまったのです。
その女性は踏切のすぐ傍にあるしもた屋の奥さんで、遮断機が降りているのに慌てて渡ろうとしたのですが、
下駄の歯が線路の間に挟まって動きがとれない間に、轢かれてしまいました。

旦那さんは気が触れたのか、それともその辺りを清めようとしたのか判りませんが、
何度も何度も洗面器の水を運んで撒いていた姿が、今でも目に焼き付いています。

未発達な心身にはとても受け止めることが出来ない衝撃だったと思います。
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ILLUSTRATED BY NANTEI

あまりのショックに暫くは食事も喉に通らないほどで、
たぶん放心状態の日々が続いたと記憶しております。
そして何を思ったのか仏門に入りたいと強く願うようになったのです。

余程しつこく訴えたのでしょう、意外な真剣さにとうとう祖母は懇意の和尚さんに打ち明け、
私は何度か和尚さんの寺に通いました。
それがどいう訳か覚えていないのですが、いつの間にか出家のことはたち消えになっていたのです。

いかにもいい加減な人生の始まりにふさわしい出来事でした。

考えてみると幼くして祖父を始め父と母、加えて若き叔母二人また叔父と相次いで失い、
なおかつ、これだけの異様な死に遭遇したにもかかわらず信仰心が希薄で、
未だに死生観を持てないのが不思議です。



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南日和 2013年08月17日 記憶 トラックバック:0コメント:30

NANちゃんの国体。
郷里で国体が開催されたのは、私が中学3年のときでした。
その国体に私も参加することになったのです。
参加するといっても、選手ではなく吹奏楽隊の一員としてでした。

私は中学に入ってすぐ剣道部に入部したのですが、
腕前は一向に上がらず、部のお荷物のような存在になっていました。

中学2年になった時、新たにブラスバンド部が発足するということを聞き、
ちょうどそのころ日活映画のアクション物に出てくるバンドマンの、
やさぐれたカッコよさに憧れていた悪ガキたちが、名乗りを挙げたのです。

もちろん剣道部と掛け持ちでしたが、私には竹刀よりも喇叭の方が合っていたらしく、
顧問の音楽教師からその上達を褒められるようになりました。

3年になると部長を命ぜられて、ますます練習に身をいれることになったその夏のこと、
顧問から国体の吹奏楽隊に推薦するがどうか、という打診があったのです。
もちろん生涯に一度の晴舞台とばかりに、躍りあがって快諾したのでした。

夏の国体は9月の中旬から始まります。
なので夏休みに入ると推薦をうけた県下のブラスバンド部員は、
合宿所で猛烈な練習の日々を送ることになります。

吹奏楽隊は開会式や皇族の臨席の際に奏する君が代から、選手の入場行進におけるマーチ。
あるいは表彰式での「ユダス・マカベウス」というお馴染の曲の演奏のほかに、
会場のある市町村を盛り上げるための、市中演奏行進など盛り沢山のメニューをこなさなければなりません。

合宿の会場は小さな町にあって、古くから信仰を集めていた古刹でした。
その広壮な本堂に約120名の隊員が寝泊まりして、訓練を受けていたのです。

ところが不良は不良を呼ぶのでしょうか、仲良くなった数人はどう見ても真面目とはいえない連中ばかりで、
合宿して一週間後の夜、消灯後の本堂を抜けだして昼間に見つけたうどん屋に入ったのです。
その当時の素うどんは一杯30円でしたが、腹ぺらしの悪ガキには夢のような時間でした。

けれども天網恢恢というやつですか、合宿所に戻ろうと寺のくぐり戸をそーっと開けたところを、
境内の夜回りをしていた教官に見つかってしまったのでした。
教官たちの部屋につれて行かれて、こんこんと説教を食らったのは言うまでもありません。

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さて、真夏の訓練の中で最も辛かったのは、市中行進の予行演習です。
炎天の下「士官候補生」や「星条旗よ永遠なれ」といったマーチを鳴らしながら、
市中を行進するのですがその暑さといったら!

その上私のパートがトランペットのファーストだったものですから、
行進の最中はずーっと主旋律を吹いていなければならず、
締め続けた頬の筋肉が痛み、唇もマウスピースの形に丸く腫れあがってしまうほどでした。

ある日の行進演習。
とうとう我慢できなくなって、セカンドのパートを吹いてしまいました。
セカンドというのは、ンタッ、ンタッ、ンタカタッタ♪というリズムを刻むだけのパートですから、非常に楽だったのですね。

そのうち周りのファースト・トランペットも、私を真似てンタッ、ンタッを始めてしまったのです。
そうなると旋律が聴こえなくなるのは当たり前。

驚いた指揮官がすっ飛んできたのは、言うまでもありません。
指揮官は陸上自衛隊音楽隊の隊長でしたが、行進を止めて猛烈に怒り始めました。

「誰だっ!最初にセカンドを吹いたのは誰だっ!」
ファーストたちはみんな無言でしたが、どうやら彼らの視線は私に注がれていたようです。

「お前かっ!」
頭のてっぺんに大きな拳が降ってきました。

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それからというもの、行進中のファースト・トランペットの左右には、
教官たちがぴったりと付くようになったのです。

こうして悲喜劇のような訓練が終り、晴れて国体を迎えるのですが、
国体でのことはあまり記憶にないというのが、不思議です。

ついでにといってはなんですが、マーチの中で比較的難易度が低い「士官候補生」をお聞かせしましょう。



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南日和 2013年05月21日 記憶 トラックバック:0コメント:22

虫の知らせ。
あれは小学校5年の時だったと思う。
季節はいつのことか忘れたが、その日は朝から自分が自分でないような、
そんな状態だったことはよく覚えている。

まず朝からなにを食べているのか、
いやなにをしているのかさえ判らないほどだったのである。

もちろん学校でのことも幻のごとく、家に帰ってきてからもその喪神状態は続いていて、
かといって熱が高かったわけでもなく、ほかの病気で具合を悪くしていたのでもなかったのだが、
寝るまでこの不思議な気持ちは消えることがなかったのであった。

眠ってどれぐらい経ったのだろうか。
突然激しく揺り起こされてみると、家の中はなにやら物騒な様子。
寝ぼけ眼のまま手を引っ張られて外に出たら、深夜にも関わらず遠巻きの人影のなんと多いこと。

振り向くと住まいは紅蓮の炎に包まれ、何台かの消防車から幾筋もの水が放射されていた。
そのうち身辺に火の粉がいくつも降ってきて、私はやっと火事だということが理解できたのだった。

茫然と火の勢いを見ていると、少し離れたところで見知った若い女が震えている姿があった。
警官がその女になにか尋ねている。

近づいてみると女はうわ言のように同じ言葉を繰り返していた。
「ワシやないが、ワシやないが。ワシなんもしとらん・・・」
そのうち女は警官に腕を取られて、どこかへ連れ去られてしまったのである。

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[NANちゃん怯えまくる]
ILLUSTRATED BY NANTEI
※NANちゃんについては自画像をご覧ください。

ともあれ私たちが住んでいた家は、全焼に近い被害を受けてしまった。
着る物も殆んど焼失した私は、翌日寝巻のまま登校したのである。

担任の教師が既に情報を得ていたらしく、教室のみんなに説明してくれたおかげで、
寝巻姿の私をからかうことは無かった上に翌日はそれぞれお古の服やかばん、
学用品を持ち寄ってくれたのだった。

焼け出された家族は、一時の仮住まいとして菩提寺の一室を借りることになった。

さてこの火事の顛末だが、てっとり早くいうと放火だった。
犯人は当夜うわ言のように「ワシやないが・・・」を繰り返していた若い女であった。
何故放火に至ったのかというと、話は少し長くなる。


私たち家族は訳あって宝塚に近い仁川から、富山県高岡市の菩提寺を頼って、
まるで疎開のように越してきたのだが、一年後寺に近い舘川町の借家へ移ったのである。
この借家は平屋二軒が細長い土間を挟んで繋がっていて、
向かって左の一軒が私たち、右に住んでいたのが指圧師で生計を立てている中年の女だった。

この指圧師のところに奥深い田舎から、姪というのが家事や雑用のために連れてこられたのだが、
この指圧師、相当に荒い使い方をした上労賃もろくろく手渡さず、
まるで奴婢のようにこき使っていたらしい。

この姪というのもどこか愚鈍な感じの娘で、それも今で言う「苛め」の要因になっていたのだろう。
長年にわたって鬱積したものが貯まっていた姪は、発作的に放火という手段に訴えたのかもしれない。
後日、その指圧師は私たちが身を寄せた寺の土間に這いつくばって赦しを乞うたのだが、
子供心にも見苦しい光景だったこと、今もって忘れられない。

あの日、何をしても心ここにあらずの状態だったのは、多分虫の知らせというものかもしれないが、
だったらもっと家族に災厄を伝える予知能力があってもしかるべきではないか。
そこが今もって私の鈍い所以なのだろう。

もうひとつ、それ以来しばらくは消防車を怖がるようになったのだ。
かの娘が放火したことを聞かされているのに、
私にはあの真っ赤な消防車が、火をつけて回っているとしか思えなかったのである。



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