八月十五日 2016年08月15日 敗戦忌 トラックバック:0コメント:18

ポン菓子。



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ポン菓子は「ドン菓子」あるいは「ばくだん」とも呼ばれている。
穀類膨張機と呼ばれる機械に生の米などを入れて加圧すると、
10倍にまで膨らみサクサクと軽い食感の菓子になる。

激しい爆裂音を伴いながら釜から内容物が勢い良くはじけ出ることから、
「ポン菓子」「ドン菓子」または「ばくだん」と呼ばれるようになった。

子供の頃は大砲のような機械を乗せたリヤカーがやってくると、
米一合を手にして飛び出したものだ。
ポン菓子の魅力もさることながら、はじけ出る「ドン!」という大きな音がたまらなかった。

戦中の食糧難では粟や黍といった雑穀の「ばくだん」が出回り、陸軍の携行食にもなった。
見た目の嵩で満腹感をという、いかにも当時のエライさん達らしい迷案ではないか。

10倍に膨らんだ実態は、10分の1である。
《弁当箱いっぱいの「ばくだん」にお茶をかけたら、あんた、1センチほどのもんさ》
昔話をしていた叔母は、のけぞって笑った。



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戦後七十年 2015年08月15日 敗戦忌 トラックバック:0コメント:10

敗戦と志ん生。

今年は日本が戦争に負けてから70年目ということで、
いつにもまして悲惨・無残の話が、連日紙面や電波を埋め尽くしているようでございます。

毎年この日に拙い「敗戦記」を書いてきた南亭としても、まだまだ語ることはたくさんあるのですが、
こう辛い話ばかり続くと、しまいには慣れてしまって、なんとも思わなくなるのが人の訝しいところですな。

で、今年は目先を変えまして、大好きな噺家と終戦のことを書いてみよう、
なんて、トボけたことを考えたのでございます。

その噺家とは、もちろん古今亭志ん生師匠のことで。
志ん生が六代目三遊亭円生や講談師らとともに、慰問団の一員として満州に渡ったのは、
昭和20年の5月のことだそうです。

敗戦を迎えたのが大連で、それからは何度も死にかけるような目に遭いながら、
やっと引き揚げ船で日本に帰ってきたのが、昭和22年1月12日といいますから、
戦後一年半がとこ満州を彷徨っていたことになるわけですな。

慰問団の一行とはぐれてしまって、一緒だったのはあまり仲の良くなかった円生。

奉天から大連行きの最後の列車に乗ってやっと辿りつき、
観光協会の二階の事務所で寝て暮らしたんだが、円生と何度も水杯をしましたよ。
黙ってちゃあ食えないからと、この部屋で二人会をやりましたね。
ニ席ずつ伺って三円てえ木戸銭でさ、それでも大入りの日にゃあ40人ぐらいは来る。

11月にこの建物が売られて以来、お女郎の逃げた後の女郎屋で「とんと居残りでゲス」なんかてえんで、
自炊をしたり車を借りて荷物をのっけて歩いてると「師匠どこへ越すんだ」という、
「いえ行く先が分からねえんで」なんて辛いことも重ねた、まるで素人うなぎでさあね(注)


なんとか落語の会でかせいだ小銭を、密航船に乗せるといわれてだまし取られたり、
志ん生は志ん生で博打で有り金をほとんど失くしたり、という踏んだり蹴ったりの有様だったそうで。

この博打の負けが引き金となって、もともと仲の悪かった二人は別々の行動を取ることになるのですが。
円生は後年、この頃の志ん生についてこんな笑い話を語ってます。

満州で、いかにも志ん生らしいと思ったことがあるんです。
ある日奉天へ行くことになった。朝、人力車を注文したんだけど一台しかきてくれない。
十歳年上の志ん生に「お乗んなさい、あたしゃ駅まで十五分ぐらい駆けるから」
てんで志ん生を乗せ、蹴込みにあたしの手提げかばんを乗せて駅へ向かった。

発車間際の汽車にやっと間に合って、さて向こうへ着くと「おい松ちゃん(円生の本名・松尾)二円五十銭おくれ」てんですよ。
「え?二円五十銭って何だい?」「俥に乗っかったじゃねえか」「どこで?」「さっき汽車に乗る前に」
「あれはキミが乗ったんだろ」「五円とられたよ」「五円ぐらいとるだろう」「だから二円五十銭おくれよ」
「だってキミが乗った俥に、どうしてオレが二円五十銭払うんだい」ったらね、
「キミのかばんを乗っけてやった」


とぼけた志ん生の人柄を面白おかしく伝えているようですが、
円生が自分の弟子にしばしば語っていたのは、「志ん生の奴は、汚い」でした。

五代目円生の養子として子供のときから高座にあがっている、
いわばサラブレッドのような秀才型の六代目円生にとっては、
ならず者のような生き方をして、おまけに破滅型の志ん生を、認めるわけにはいかなかったのでしょう。

一方の志ん生もラジオ番組でしたか、当の円生がいる前で森繁久弥に、
「あんただってちょっと稽古すれば、円生くらいにはじきになれます」
と話しかけて森繁をあわてさせたことがあるといいますから、よほど二人は水と油だったのでしょうな。

志ん生はなぜ満州へ行く気になったのかにつきましては「むこうには、まだ酒がありますから」
と無類の酒好きだったらしい逸話が残っておりますが、
実際はその時分連日になっていた空襲を異常に怖れていたのだといいます。

空襲から逃れたい一心と豊富な酒への渇望が、
家族もなにもかも捨てるように満州へ渡った志ん生の本音だったようで。

ともかくどういう手立てを使ったのか、志ん生は兵隊服一丁の着の身着のままで日本に戻ってきたのですが、
帰国がニュースに取り上げられるなど注目されたといいますから、当時から只ものではなかったようで。
それから後は一気に芸・人気とも勢いを増して、昭和24年には映画「銀座カンカン娘」に出演するなど、
人気絶頂の噺家となるのでございます。

円生の話や満州行きの経緯を聞きますと、自分勝手な男と取られる向きも多いでしょう。
しかしですな。この自我の強さこそ強烈な個性となって後年の志ん生を、
なんびとも追随できない境地に至らせたのは、間違いのないことと思うのでございますよ。

ただ・・・
戦地の慰問団に加わって行方不明になったり銃撃で亡くなったり、船もろとも海底に沈んだ芸人も少なくないと聞きます。
志ん生がそういう憂き目に遭うことなく、なんとか故国に戻ってきたことによって、
わたしたちはその後の「至芸」に触れ、「志ん生」という名を永遠に愛でることになったわけですから、
落語の神様もニクいことをなさったものですな。

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ILLUSTRATED BY NANTEI

敗戦記念日にこんな話をするなんて、哀しみの記憶を噛みしめてらっしゃる方々には申し訳ないのですが、
気休めにと読んでいただければ、南亭も救われるというものでございます。


(注)「素人うなぎ」とは落語の演目のひとつ。
明治維新後、武士は慣れない商売をすることになる。ある旗本も鰻屋を開業したはいいいが鰻の調理すらもできない。
そこで板前職人を雇うことになるがこの男、腕は抜群なのだが非常に酒癖が悪く飲んでは暴れるのだ。
余りのことに、とうとう店を追い出されてしまった。追い出したはいいものの、朝から客が多くやってくる。
なんとか鰻を調理しなければ。元旗本は慣れない手つきで鰻をつかまえようとするが、なかなかうまく行かず、
逃げた鰻を追いかけて、ついには表に飛び出した。
「…どこへ参るかわかるか、前に回って鰻に聞いてくれ」





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南回廊 2014年08月15日 敗戦忌 トラックバック:0コメント:22

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「三つの時代」小寺真知子作 千葉市青葉の森

いろいろな経緯があって、終戦の前後わたしは親戚や寺をたらい回しにされてゐたらしい。
どこかでは相当食べるものに事欠いていたのだらう。
まだ歯が生えそろってない私の口に、煎り豆を抛り込んでゐたさうだ。

祖母が引き取りにきたときは、その豆が消化されないまま排泄されてゐたといふ。

こんな話をしても、切実に受け止める人は稀になった。




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南回廊 2013年08月15日 敗戦忌 トラックバック:0コメント:16

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八月十五日。
猿島(さるしま)は、東京湾に浮かぶ無人島であり、湾内最大の自然島である。
幕末には江戸幕府の台場が築造され、明治時代に入ると要塞として猿島砲台が築造された。

猿島には3基のカノン砲が据えられていたが、
昭和16年ごろより鉄筋コンクリート製の円形砲座が5座造られ高射砲が配備された。
これが散策路沿いのあちこちに点在する砲台跡である。
高射砲は終戦まで米軍機に向かって火を吹き続けたという。戦後進駐軍によって解体破壊された。

島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残っているが、
平成15年、横須賀市が国から猿島の無償譲与を受け「猿島公園」として整備。
夏は海水浴、また一年を通してバーべキューを楽しむことが出来ることで人気の島となっている。

東京湾には房総半島、三浦半島にかけてこのような要塞が都合23か所、設営されていた。


ところで、東京都を除く全国都道府県に、
護国神社という社があることをご存じだろうか。

護国神社は、国家のために殉難した人の霊(英霊)を祀るための神社で、
その道府県出身ないし縁故の戦死者、 自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神としている。

千葉市にも立派な千葉県護国神社が建立されていて、
やはり千葉県縁故の戦没者及び殉職者を祀っている。

神社の横の桜苑には、巨大な忠霊塔を中心に地元の歩兵連隊、
また中国に派遣された部隊の戦没者たちを慰霊する鎮魂碑が並んでいるが、
中で目を引くのが「陸軍少年飛行兵 慰霊之碑」である。

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陸軍少年飛行兵とは、日本陸軍の航空兵科下士官となるため、
10代の男子志願者から選抜されて陸軍の航空関係諸学校で教育を受ける者のことである。

昭和8年4月に制度の原点となる陸軍飛行学校生徒が定められ、
昭和15年4月より正式に「少年飛行兵」の名称となり太平洋戦争終結まで存在した。
少年飛行兵の戦没者は4500余柱を数えるという。

千葉県出身の戦没者は何人なのか、残念ながら調べ切れないでいるが・・・

「少年飛行兵」という箇所が目に痛い。

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8月15日は、終戦記念日、終戦日、敗戦日と呼ばれているが、
角川書店の創業者で国文学者でもあった角川源義は「終戦」という言葉を嫌った。
長女で作家の辺見じゅんさんが不用意に使うと、
「あれは敗戦だ。終戦なんて簡単に言うな」と怒ったそうだ。

《朝日新聞「天声人語」より》

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南回廊 2012年08月15日 敗戦忌 トラックバック:0コメント:32

アカキッキ。
小学校の往き帰りは北陸線の踏切を渡る。
踏切から少し離れた駅の裏手に幅2メートルほどの小川がある。
深さは大人の腰ほどの川だ。

駅の裏といっても10軒ほどの住家が固まっている一画を過ぎるとあとは田んぼだったが。

川の名前はあったのか無かったのかわからない。
この川も学校が休みの日以外は毎日のように渡る。

二日に一回はその川の真ん中をサブ、ザブと男が歩いている。
いつも上半身裸だったような記憶があるその男は、
髪はぼうぼうで顔は髭に埋もれていた。

例えるなら、鬼界ヶ島に流された俊寛僧都のような風貌だった。

どこを見ているのかわからないような目をして、
雨の日も風の日も、更には雪に覆われた日もザブ、ザブ、ザブ川の中を進んでいた。
しかもその行き先は誰も知らなかった。

首から下は洗濯板のように肋骨が浮いたその男のことを、
みんなは「アカキッキ」と呼んでいた。

なぜそういう名前がつけられたのかは誰も知らなかったが、
子供の目に捉えられると恐ろしいほどその本質を言い当てられることが多い。

「アカキッキ」。
今思うとたしかにそれ以外の呼び方があるはずないと思うほど、
在りようをずばりと表した言葉だったのだろう。

もしかしたら「赤鬼」の意味だったのかもしれない。
そういえば冬は寒気のせいだろう、真っ赤な裸身を晒してザブ、ザブ、ザブ・・・していたようだ。

子供は好奇心も強いし興味を持ったらとことん付きまとう。
残酷な面も多いし、それもなまじ無邪気だから手に負えない。

異形のものや自分たちより数段劣った者に対しては、
それこそ石をぶつけることも平気だ。

ところが「アカキッキ」がザブザブ川を掻く姿には石を投げることはおろか、
からかいの声すら浴びせなかったのだ。
それはきっと一見狂ったような心身から犯し難い威厳を感じたからかもしれない。

やがて私は町外れにある中学校に進みあの川も踏切も滅多に渡らなくなってしまった。
と同時に「アカキッキ」のことも次第に忘れていったのだ。

それからまた五年、高校2年のときの夏休みだった。
小学時代の恩師T先生を囲んで同窓会のような集まりがあった。

その最中に同級生の一人が突然「アカキッキ」と言う言葉を口にしたのだ。
一瞬なんともいえない空気が流れた。
「おう!アカキッキな!」「居ったが!」「どうしたがやろ!」「今も川歩いとるがやろか?」「・・・?!」

こもごもの思いが声となって室内にコダマした。

「あのっさん、済世会病院で亡くなったがや・・・4年前のことやちゃ」
おもむろに口を開いたのはT先生だった。

川下の赤祖父という村で行き倒れのようになっていたのを見つけた村人が慌てて診療所に担ぎこみ、
そこから大きな済世会病院に運ばれて、その直後に息絶えたそうだ。
それにしてもあのような常軌を逸した日々を送ったにしては、
驚くほど強靭な心身だったことに改めて驚愕を覚えたものだった。

「昭和20年の8月1日のことやちゃ、B29の爆撃で家族4人が眼の前で火だるまになったがやと」

8月1日は地方都市への爆撃としては、
原爆を投下された広島、長崎についで被害が多かった富山大空襲と呼ばれる日だった。

激しい爆撃が去って防空壕から出たその人たちだったが、
一番最後に一行と離れて家族が出て来たその時、不発弾だったらしい焼夷弾が不意に爆発したのだ。
焼夷弾は一瞬にして母親と妻、そして二人の子供を炎上させてしまったのだ。

その人と一緒にいた男の話によると、
「振り向いたら燃えとったがやと、四人」
T先生は淡々と語り継いだ。

「なん、この戦争で命失くした人、手足失くした人」

いろいろおるけんどお~お、
たましいを失くした人もおるがいちゃ!

T先生はそこで始めて声を湿らせた。


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小学校の朝礼




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