南回廊 2011年09月30日 原発 トラックバック:0コメント:24

9月の「定義集」より。

9月の「定義集」は[過去の表現 次世代のヒント]と題して、
国語学者大野晋氏のことから書き始めています。

そして大野晋氏編の「古典基礎語辞典」を読み続けていることに触れ、
その中の、もののあはれ【物のあはれ】について、
《もののあはれの、モノとは「決まり、運命、動かしがたい事実。
世の人がそれに従い、浸る以外にはありえない自然の移りゆくこと、季節」などを意味する。
アハレは「共感の眼差しで対象をみるときの人間の思い」である。
思いといってもそれは喜びではなく、むしろかなしさを含んでいる。》

《「モノ」を正確な意味づけでとらえぬまま、「モノガナシ」での「モノ」が、
「なんとなく」と訳されているのは誤りだ》
という大野氏の「解説」を書き抜きしています。

大江氏がなぜ大野晋氏にこれほど引きつけられたかというと、
1963年に起きた「狭山事件」裁判における「脅迫状は被告人が書いたものではない」という大野論文に接して、
国語学者としての綿密な読みとりが、社会的発言に役立つということ、しかも、
不正義への烈々たる闘志は、これこそ知識人のものでなければならない、
ということを胸に刻み込んだからだと述懐しています。

さて、この「古典基礎語辞典」で取り上げられている言葉の表現が、
どう次世代へのヒントになるのでしょうか。

大江健三郎氏は続けます。
以下は原文のままです。

トーマス・マンは、文学が「未来の人間性」を表現する、としました。
いま、原発で出る使用済み燃料の始末は未来の人たちに託すほかない、
という話が、当然のことのように示されるたび、その大仕事を背負い込ませられる人類の、
「未来の人間性」をどう考えるのか疑います。

現在の人類は、次の世代のために良き未来を準備するという意識、
あるいはモラリティーを捨てたのか、と。

それでも「古典基礎語辞典」を読んで励まされるのは、いちいちの言葉の読みとりに、
過去の表現をつうじての「未来の人間性」の探求が、脈々と行われているからです。

これでこの9月の「定義集」は締めくくられているのですが、
さて、私はというといまだに咀嚼しきれてないのです。
かなしいながら「未来の人間性」とはどういうことかをまだ理解できていません。

ひとつ言えることは言葉を正しく読みとり、正しく伝えることが疎かにされた社会は、
次の世代にどんな警告と希望を残すことができるのだろうか、という疑問でした。

そして今なお言葉を歪めてまでも、我利を押し通そうとする人の多さ。
大江健三郎氏はそんな日本に言論の根本を問いかけているのだと思います。
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この9月の「定義集」は21日に掲載されたもので、
それからもう10日も経っています。
こんなに遅くなったのは読みとる能力に欠けていたことのほかに、
もうひとつの理由がありました。

それは今日が9月30日だということです。
ちょうど12年前のこの日、東海村の核燃料加工施設で、
国内初めての原子力事故(臨界事故)が発生したのでした。

2名の死者と670人の被曝者を出した核の恐ろしさに震えあがったというのに、
それが教訓ともならず最悪の原発事故となったことに、いいようのない怒りと無力感を抱いていたのです。

これは私にとっては他人ごとではありません。
なぜなら当時東海村の近くにすんでいた、被曝すれすれの親友がいたからです。


ところで今回の「定義集」の話、私はまだまだ能力不足です。
ぜんぜん通じなかったのではないでしょうか。
忌憚のないご意見をいただければ、こんなに嬉しいことはありません。


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